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こんにちは、地球国日本県あちこち市の皆さん、私です。お元気ですか?これまた随分と長い間ご無沙汰しておりました。こんな私ですが皆さんもご存知のように色々と考え込んでしまう性質なもんですから、なんだかんだと落ち着かないこの地球の様変わりに付いていくのに必死だったのです。ご理解くださいませ!




今回も頭の中がまとまらないまま書き出してみよう。これは悪い癖だと自覚しているけれど、このまま進めよう。読むのが嫌なら途中退場でも構いません。今日、この日に至るまでの何やかんやをすっ飛ばし、自分の中での整理も含めてただただ思うままに書き連ねたいと思う所存。お付き合いくだされば嬉しいです。





まず、猛烈に感じること。次元が変わる。これ。時代や常識というレベルのことでは無いだろうなと思っている。いっときの未知の感染病の蔓延でもなく、もっともっと根本的な目に見えないレベルのものが変わっていってる感がすごい。ウィルスの蔓延に目を奪われているけれど、これは地球が起こしたキッカケのように思う。次の次元に行くための。そしてきっともう元の世界には基本的には戻らない。前の世界のままで生きる人は本当に生きにくくなるだろうと思う。5歳と30歳が同じ職場で同じ仕事をするくらいのズレが出る気がする。
私は経済のことに詳しいわけじゃないし、ここで課題提起したいわけでもない。そして、物事に白黒をハッキリつけること、正悪をつけることももう『前の世界』に置いて行こうと思っている。そういったことでさえ、もう『違う』と感じる。






競争や上下の概念が意味を持たなくなる、と言えばいいのだろうか。「好きか好きじゃないか」の世界しかなくなる、と言えばいいのだろうか。「勝ちと負け」とかもあまり意味がない気がする。自分で自分を「知っている」と「知らない」の方が近い。優劣が優劣でなくなる、と言えばいいか。表現することがとても難しいが、私たちはこういうことをもうすでに体験していると思う。売れている商品が自分に合うとは限らない。1番人気のスウィーツが自分の口に合うとは限らない。有名店のスタッフが最高の接客をするとは限らない。小さな会社が作る製品が壊れやすいとは限らない。『他者からの評価軸を基準として並べられた上で比較して出した答え』と『自分の評価、答え』という別々のモノサシの話があるということだ。今までは前者に重きが置かれていて、世界は大きなものにコントロールされていた。でもこれからは圧倒的にこの後者の世界になる。気がしている。



『どうせ死ぬ』のだ


嘘や誤魔化しが通用しなくなる、ハリボテのものはすぐに見抜かれる。だからこそ今がチャンスだなと思う。嫌な仕事を辞める、めんどくさい人間関係を辞める、自分自身の本当の姿を出す。やりたいことを公に出す、やりたくないことは「やりたくねえ」という。素直になる。自分を大事にする。自分を大事にすることとは、ケーキを食べさせたり、温泉に浸かること(もいいけれど、、)ではなく、やりたくないことに「やりたくない」ということだと思う。アロマを焚くこと(もいいけれど、、、)周りの雑音に「知るかよ!」ということだと思う。私は雇われていたとき、基本的にノーが言えない人でした。でもノーと思っているのにも関わらず、イエスな振る舞いをすることで一番傷ついていたのは、実はこの世で一番大切にしなければいけない自分でした。自分の気持ちと逆のことをする時ストレスが溜まるけど、それは自分の本心を無視しているからだと気づいたのでありました。そして辞めました。自分の気持ちを最優先事項にしました。
そしたら皆さん、皆さーーーん!
自分が満たされたら、相手にサラッと譲れる心の余裕が出来るのです。
自分の心の黒さを見つめたら相手の心の黒さもわかる。
自分の心の弱さを認めたら相手の心の弱さも認めることが出来る。





誰かを断罪するとき、誰かよりも優位に立とうとするとき、世界はどうしても狭くなる。右と左に分けること、上と下とに分けること、白と黒に分けること、確かに多くの物事を整備するのにはとても上手い方法だとは思う。でもその考えを個人が振りかざし、権力のある人が振りかざしたとしたら、そんなハッキリ区切られた意識に世界が満ちたとしたら、それはもう人類の限界なのではないだろうか。人によって正義は違う。幸せが違う。不幸が違う。私はそんな区分された世界は嫌だ。どうせ死ぬ気で生きてもたった100年しか生きれないのだ。今年36歳の私は余命たった64年だ。(人生100年時代によると)悪いことも愚かなことも救いようのない馬鹿げたことも全部ひっくるめて味わって『楽しかった』と思って死にたい。折り目正しい、そよ風のような、誰も傷つけず誰からも傷つけられない生き方でなく、『あの時は終わりかと思った』とか『最悪だったけど助けてくれる人がいて心底感謝した』とか悲喜交々味わいきって死にたい。そう思うと不思議なもので、しんどい出来事もちょっと楽しめる自分が出てくる。そんな自分を見つけることができたこと自体が少し嬉しかったりもする。







『どうせ死ぬ』のだ。
新しい次元に突入する地球国を満喫したい。






LIFE is Wonderful.
つい2ヶ月前までこんなことになるとは誰が予想しただろう。コロナウィルスの蔓延、オリンピックの延期。相方がオリンピックのチケットが当たったという話をしていた頃、オリンピックが延期になるなんて有り得ないことだった。それこそ地球がひっくり返るようなことが起きないかぎり、有り得ない。でも有り得た。ひっくり返るようなことが起こった。世界レベルでのウィルスの蔓延。映画のような出来事だが、実際、現実の方がよほど映画の展開よりもドラマチックである。





一部の批判を承知の上で書く。このウィルス騒動に関してとても残念に思っている。ウィルスに関係した事柄にではなく、買い占めなどのまるでイベントごとのような騒動について残念に思っている。外出した先での手洗い、アルコール消毒、帰ってからのうがいなどは普通にする。トイレットペーパーの買い占めもティッシュの買い占めもしない。よく寝て、よく食べて、そこそこ運動をする。私はモノが無くなることより、我を失うことのほうが余程怖いと思っている。冷静な判断を失うことが、小さいことを大きくする原因だと思っている。だが恐怖がないわけではないし、買い占めたくなる気持ちも理解は出来る。普段あるものが無くなる恐怖。いつもの日常が失われる恐怖。自己防衛本能として備わっている人間の本質だから仕方ない。だが人間には備わっているまた別の素晴らしい力が沢山ある。変化に対応できる能力、自分を癒し治す能力、自分以外の人間と助け合う能力。素晴らしい能力が沢山あるしあることを本当は誰でも知っている。忘れているだけだと思う。こういう非日常の時にこそ、発揮されるはずの能力が必ずある。私はそれを信じたい派だ。





毎朝、少し早めに家を出てサロンがある方向、つまり朝日に向かって歩いていく。毎日毎日【なんて幸せな時間なんだろう】【すべてが浄化されていく】【太陽は必ず昇る】などと思いながら歩いていく。こういうときは意識のスケールが大きくなるから自分の中の幸福度がMAXになる。ということが、最近わかった。だから早めに家を出れるように朝は早く起きる。サロンについて自分のためにお湯を沸かしてコーヒーを入れる。お湯が沸くまでの間に、サロンの準備を少しする。朝日が差し込む静かなサロンで好きな音楽をかけてコーヒーを飲む。(本当は牛乳入れたカフェオレ)この時間が最高に好きなことも最近わかった。
自分にとって何が心地いいことなのか、どんなに小さなことでもいいからひとつひとつ見つけてあげて、それを実行していくと毎日の幸福度がめちゃくちゃ上がる。ということも最近わかった。自分の【これ好き】を味わえるための努力なら、朝早く起きることも全く苦にならないこともわかった。







春はくる



恐怖や不安を軸に生きるのか、これ好きや夢や希望を軸に生きるのかであれば、きっと誰もが後者を選ぶ。でも気をつけないといけないのはこれ好きや夢や希望を軸にする生き方を誰かが用意してくれたり、天から降ってくるものではないということだ。
仲良しのKさんのお話が興味深かった。Kさんのお母さんが【あなたは好きに自由に生きてると思ってたけど、あなた自身が好きに自由に生きれるように取捨選択してきたって
ことなんだね】という内容のことを仰ったと。


まさにそうだ。その取捨選択が楽しいことばかりであったはずがない。時に苦しい、悲しい選択があっただろうし、なんで自分がこんな目に遭わなければいけないのか、と誰かを責めたくなることもきっとあったと思う。それでもお母さんの目から見てKさんが輝いた人生を送っているように見えるのは、Kさん自身がどんなに苦しい時も人生の軸を希望に傾けて生きてきたから。どんな場面でもそちらに向いていく選択、決断をしてきたから。その生きる姿勢がまた周りの人の希望になるのだと思う。






Life is wonderful.
金曜日の夕方だが予約が途切れたのでお休みにした。今年の秋に台湾へ行くために取り直したパスポートを引き取りにやってきた。空き時間を利用してこうした休憩が出来るのが雇われていない職場のいいところだ。実際、相方にも時間の使い方は好きにするようおススメしまくっている。仕事をして、片付ければ帰ればいい。一応営業時間を18時までと決めているけれど、表記しなければいけないから決めただけで、サロンでの仕事がなくなれば他の仕事に移れば良い。もし他にスタッフが増えたとしても、基本的にはこの姿勢でいきたいと思う。サロンで行う仕事と同様、大切な仕事を今の現代人は沢山抱えていると思う。



11月6日にオープンして、本日で4ヶ月になる。あっという間に3ヶ月が終わった。年明けからホームページ制作に入り、Facebook、Googleマップと登録して世界にtoiroを紹介した。3ヶ月目となった先月2月、ご新規さんの来店が明らかに増えた。なるほど、看板も出していない店だけど、どうやら美容室だということが認知されてきたらしい。Googleマップに登録すると写真の閲覧数が出るので、何人の人がマップ上で写真を見たのかがわかる。なるほどなるほど。ここ数年、経営者セミナーや美容室の運営セミナーのようなものに参加した記憶がまったくないので、手探りではある。でも、確実にサロンづくりが始まったのだなあと思う。いよいよtoiroがヨチヨチ歩きを始めたよ。
それにしても、経営者という言葉にどうも未だに馴染めない。それって自分以外が自分を指すときに便宜上使う言葉ではある。が、なんかもうそれだけでしかない。あと、「経営者」という言葉にあまりポジティブなイメージがないからかもしれない。人より会社、利益を優先するイメージがついてしまっている気がする。もちろん人のために利益を出さなければいけないのだろうけれど、それならば利益の研究ではなくて人の成長や幸福に繋がることにエネルギーを注ぐことが結果的に利益に繋がると思っているところがある。こんな考えがすごい経営者から見てどう思われるのかは知らない。知らないし、違うのかもしれないけれども、もはや私に指図できるのは私か最強の相方しかいない。だから今世ではそういう世界を創ってみたいなあと思っている。今回の人生を使って、「利益の追求より人の成長や幸福」を優先した場合どうなるのか?という実験をしたい。その人とは自分や相方である。自分らが実験材料である。



偏っていこう



2019年の年末から、今に至るまでに私の中での価値観やモノの見方がまたグルングルンと変わった。違う段階に入った感じがすごい。昨年の自分とは別物だと感じる。こうなる流れだったのだなあと今なら色々なことを落ち着いて受け止めることが出来る。大変なこともあった気がするし嫌な気持ちになった気もするけど、それもそれぞれにエンターテイメントだったなあと思う。お店を作るつもりはなかったけど、出来たし、結果的になるようになったなあと俯瞰できるようになった。最初、お店を出そうと思ってあちこち調べに行ったりしていた頃は「通帳の貯蓄の履歴が融資審査を左右する」とか「自己資金は最低○○円いる」とか開業のためのノウハウで色々と焦っていた。でも違った。ノウハウで書かれていた自己資金の額など到底持っていなかったし、必要だとされていたものはたいして必要ではなかった。


世の中に余分が溢れているのだな、と思う。おもしろいこと、こわいこと、たのしいこと、かなしいこと、すべてが需要より供給量の方が今は多いのだ。つまり何が言いたいのかというと、道はめちゃくちゃたくさんあって、最終的には自分が望むように現実が創られる。自己資金がなくても、ノウハウ通りにしなくても自分がやりたいことは必ずやれる、ということ。私がそうであったように、色々調べて最短ルートを探したりするけど、それが逆に足元をすくうこともある。自分が望む未来の絵があったとして、描き方は1つではない、ということが言いたいのだ。だからもっとこの地球で遊ぼう。一見余計と思われることをしたって、望む未来を描いていればその方向に舵はとられる。その際に一番大切なことはGoogle先生でリサーチしまくる時間でも、人が持っているものと自分が持っていないものを比べることでもない。自分が大好きなものを見つけて、それにどっぷり浸かることだと思う。思いっきり偏ることだと思う。供給過多なこの世の中で、しっかり偏って、自分が大好きな遊びを見つけていこう。その中でこそ私達は希望を取り戻していくのだと思う。



Life  is Wonderful.




月曜日の13時半、難波のコメダ珈琲にいる。今年は37歳の大厄なので厄払いにやってきた。店を開店する時も方除けと言って、方角の厄除けに行った。お詣りというものは目に見えないものに願いを叶えてもらう、ということもあるとは思うけれど、私にとっては自分への宣言、覚悟の意味合いが強い。神仏への作法はほとんど知識がないし、もしかしたらかなり無礼な振る舞いをしているかもしれなけれど、そんな作法だけで叶えるか叶えないか決める神様とはそもそも相性が悪いと思う。神様への誓いよりも自分への宣言の方が相当大事だと思っているところが昔からちょっとある。神様はあくまで見守ってくれる存在、おかしな方向に行きそうになったときに知らせてくれる存在だと思っている。ということで、本日の厄除けも『これから人間的にも成長するし、生活水準もあげていきますし、どんどん巻き込んですべて豊かにしていきます。どうぞ見ていてください』と厄除けとは関係のないお願いをしてきた。







年末に書いた文章を見返した。硬い。なんて硬いんだ、、真面目で塗り固められた五所尾仁美よ、、まるでコンクリートじゃねえか、、、!あれから約1ヶ月ぶりのブログである。自分でいうのもアレがアレだけど、私、生まれ変わりました。Twitterには日々の呟きの中で『過去の自分を絞め殺した』って書いたのだけど、実際あれからネガのオーラが大きく幅をきかせたり、居座ったりすることは無くなった。支配されそうになったら頭の中でもう1人の私の声が聞こえる。『え?あいつこないだ殺したからもう出てこないよ?』あ、そっか。あの生き方はもうやめたんだった。ネガティブのフリして、出来ないフリして、自信がないフリをして本当の自分で生きる覚悟がなかった五所尾仁美はもう消えたのだった。古い生き方をやめて、新しい自分で生きる覚悟がようやく決まった。2020年、大厄の歳に新しい生き方デビューである。








真面目が素晴らしいと思っていた。一生懸命が素晴らしいと思っていた。苦しみの先にしか喜びはないと思っていた。ちゃんとやらないといけないと思っていた。みんなが認めるような綺麗な努力と勤勉さで人生を歩まなければいけないと思っていた。経営の勉強をして、お金について学んで、お国からの借金があるのだからちゃんと支出を計算して、月々を回していかなければいけないと思っていた。95%、思い込みだった。自分への呪いだった。そんな時代も確かにあったけど、そんな時代は確実に終わっていたのだった。私は昭和生まれの根性論育ちだから、どうしても苦しまないと身につかない、と思っている節がある。ウエストがゴムのボトムスばかりでは【体を甘やかしている!!】と思ってタイトなジーンズにねじ込もうとしてしまう。でも、タイトなジーンズはもはやトレンドではないのである。好みだ。好きな人は戦うボディーを選べばいいが、時代はオーバーサイズなのである。ゆとりゆとり、余白余白。ねじ込まずとも、オシャレにカッコよく生きていける時代が来ていたのだった。







見えるものは信じない




目に見えるものしか信じない、と口にしたことがある。多分20代の前半か中盤だと思う。目に見えるもの、結果、は思考や過程の最終の形だから。行動も目に見えるものだ。それを基準にして人や周りを見ていた時もある。あの人は行動してるから変える意志がある、とか。今は違う。目に見えるものは信じない、だ。人間にある思考や感情は思う以上に色々な種類がある。AはA、だけではなくAだけど実はBで、でも世間体のためにAにしてるもある。つまり本当はBだ。そういった思考や感情が入り組んだ結果として目に見える世界を作っているのだから、目の前のことに執着することはとても危ない。むしろ目の前の出来事は取るに足りないようなことなんじゃないか、という気さえする。
目の前の出来事を見ないのであれば、何を見るのか。自分の気持ちだ。感じ方だ。見えないものの方だ。過去の自分を絞め殺した私が今こんな心境になったのは、AはAにしか見えなかったものを、AはBやCであるかもしれない、と様々な可能性を見るようになったからだった。
また、自分は本当はBだとどこかで思っているのに、それに気付いていない人もいる、ということもある。その人にはその人のペースがある。色んな人がいる。色んな選択がある。正解は無いし、不正解も無い。どれでも大丈夫。なんでも大丈夫。真面目じゃなくても、苦しまなくても、ちゃんとしなくても、全部大丈夫。全世界がAをAだとしても、自分がBならばそれでいいのだ。






自分の全部が大丈夫、となった時からの変化がすごい。なんの算段も無しに3泊4日屋久島旅行と4泊5日奄美大島旅行を立て続けに決めた。4月と5月である。自分でお店をしていて、売上を上げなければいけないのに、2か月続けての連休。去年の自分だったらメンタル的に絶対出来なかったな〜って思う。焦っただろうな〜って思うけど、今は違う。自分が思いっきり命を使って遊んだり働いたりすることがお店にとっても良くなることだという自信がある。来てくれるお客さんにいい空気を吸ってもらえるはずだという自信がある。これこそが今の時代に相応しい感覚な気がしている。







Life is wonderful.


12月30日の13時45分、スターバックスにいる。昨日で2019年の営業を終了し、今日はお休み1日目。親しくして頂いている先輩女性美容師・Dさんのサロンにヘッドスパを受けに行った。きちんとヘッドスパを受けたのは初めてだった。他のサロンにお客さんとして行ったのもかなり久しぶりだった。セット面に座り、鏡ごしに美容師さんと話す。Dさんはキラキラしている。お客さんの気持ちになった。この安心感。この人だったら受け止めてくれる、という絶対の安心感。オシャレなファッション、キラキラした眼差し、可愛いメイク、優しい空気感。美容業界に17年もいる私でも安心する。美容師でないお客さんならより一層、完全に身を委ねるであろうことは簡単に想像できる。Dさんのサロンは30年続くサロンである。今は起業した会社が10年続く確率は6%と言われている。そんな世の中でネットクーポンなどでの集客に全く頼らずに30年。「すごい」を軽く通り越す。その強さの裏側にある信念は、サロン内のメニューなどで感じることが出来た。優しい雰囲気のサロンの中に置かれたPOP。刺さる言葉。オーナーさんがこれだと信じ、貫く想い。それがなければ人の心を掴んで離さずにいることなんて出来ないのだろうと思った。そして私が目指していく世界はそんな世界なのだと改めて、確信した。





自分の役割を考える。何がしたいのか、何に喜びを感じるのか、どうなりたいのか、どうありたいのか、どのような人生を送りたいのか。私がよく読んでいるブログの著者は言った「死んだ時にあの世に持っていけるものは、愛した記憶と愛された記憶だけ」。その通りだと思う。どれだけ財産を蓄えても、素晴らしい肩書きを背負っても、それを持っていくことは出来ない。私たちは生きている間中、いつどんな時でも生産性を求められる。収入の多さ、仕事での成果、子供を何人産んだのか、社会への貢献度や社会での存在価値。私はサロンを仲間たちと創った。そこを存続させるためにはもちろん成果を出さなければいけない。うっかりすると成果を出そうという現代の思考に引っ張られそうになる。だけど、成果を出すことを第一にした時点で、あのサロンは本来の生まれた理由を失ってしまう。
toiroは「スタッフ、お客様を含め、関わった人たちが持つ多種多様の個性を活かし、その人を輝かせる場所」という想いを込めて「十人十色」の「十色」から名付けた。成果第一にするのなら、それはtoiroでなくてもいいはず。そんなことを考えながら私自身の役割は何だろうと考える。どんなふうにtoiroを愛し、関わる人たちを愛することが出来るのだろう、と。







あなたを何が何でも愛しぬく







何かを大切にしようと思うこと、そしてその想いを持ち続けること。順調なときは当たり前に出来ることが、順調でない時は出来なくなる。継続が何よりも難しい。自分の精神状態が悪ければ、相手を非難して自分を正当化する自分にも出会うし、何か不運な出来事のせいにしたくなる時もある。何かを真剣に大切に思うということは、自分の心の奥底にある弱さと向き合うことだ。苦しみが訪れるたびに、自分の不甲斐なさや小ささが突きつけられる。つらい。苦しい。逃げたい。この想いさえなければ、楽になれるのに。そんな自分を目の当たりにしながら、それでも想いを持ち続ける。
そして、ふと気づく。この大切な存在は、自分の弱さを見せてくれているのだ、と。「突きつけている」のではなく、「見せてくれている」。
これが今の君だよ。こういうところがあるけど、それも君だよ。見ないフリをしなくてもいい。弱いところを隠さなくてもいいんだよ。知って、理解して、受け止めればいい。受け止めて、抱きしめて、こんなところがある君だけど、いいところもあるから大丈夫なんだよ、と。いいところばかりの君じゃなくていい。全部ひっくるめて、君なんだよ、全部ひっくるめて、愛していいんだよ、と。





自分の役割。それは自分であることなのではないか。自分を愛した分だけ、きっと誰かを愛せるのではないか。自分の周りにいる人は自分と何かしらの共通点があると思うから、自分を愛するということは結局、相手を愛することにつながる気がする。どんなに情けない、かっこ悪い、意気地なしの自分でも、何が何でも愛しぬく。そう思えて初めて本当の「愛する」を感じることが出来る気がする。





その覚悟から創っていく世界を見てみたいと思う。








Life is wonderful.

12月23日月曜日の21時44分自宅にいる。今日は毎年恒例の「断捨離デー」だった。ここ数年、クリスマス付近になると断捨離をする。今日も気前よく色んなものを捨ててやった。着なくなったスポーツウエア、観葉植物用の小さな鉢、昔のノート、分類のしづらい細々した燃えないゴミたち。断捨離を始めると私の目は獲物を狙うスナイパーになる。必要のないものをギラギラした目で探しながら、ぽいぽいぽいぽいと袋に詰め込んでいく。物に関しては、「1年手を触れなかったものにはこれからもご縁が無い」と考えているのでとても潔く進むが、ノートや手帳の中身など思い出関連に関しては少し後ろ髪を引かれたりもする。ちょろっと見返しては「あー、この時これやってたんだな。。。頑張ってたな。。。泣ける。。。」なんて感傷に浸りながらパラパラページをめくる。だが、しかし。「これからの私には必要ない!!ふん!!」と鋼のような強い意志でパタっと見開きを閉じて、さっとゴミ箱へ突っ込む。さよなら、私。ここまでようやってきたな。1年前とはえらい変わりようやで。また来年の今頃はそんなふうに思えているさ。さて、これでまた少し余白ができた。2020年の新しい風を取り込む準備が出来たのである。(年内はまだまだやるつもり)





  
2020年があと1週間ほどで幕を開ける。2020年ってなんだかまるで近未来みたい。「2020年宇宙戦争」とか映画のタイトルで使われそう。2020年て本当に来るんだね。そんな能天気な気分である。先日、過去の私を殺して新しいネオ・ヒトミ五所尾と書いたが、ネオとしては2020年ももちろんテーマを掲げたい。ちなみに2019年は「ユーモア」だったが、これは正直、あんまり出来なかった。追い込まれた時も「ユーモア」を持って生きたい、という思いがあったが、追い込まれたときはただひたすら追い込まれてしまった。パートナーには当たり散らすし、親には連絡しないし、自分の器の小ささが露呈した。私は必死なんだ!という言い訳を振りかざし、身内からは「こいつはめちゃくちゃ性格悪いな。すんげえ小せえやつだな。」と認識されたと思う。これに関しては頭をいくら下げても足りない。もはや下げる頭すら見あたらない。私の容量を越えていた。そしてそんな時の私こそ、私の本性なのだった。ユーモアのかけらも無い態度をとったことは反省しても足りないけど、反省するしか方法が無いので今年いっぱいは反省します。そういった残念な面もあった2019年のテーマ「ユーモア」を経て、まあユーモア出来なかったけど、(存在は割とユーモアがあったとは思うから)2020年はまた自分にとって恐ろしくハードルが高いテーマ、、目標?を掲げたい。2020年の生きるテーマは「信じる」。そう、ビリーブ。







35年生き長らえると、流石に自分の悪い癖は把握できるようになってきた。これもまた周りの人たちのおかげ様ではあるのだけど、私はあまりにも物事を白黒ハッキリつけすぎる。そして、待てない。すぐに答えが欲しい、結果が欲しい、自分のスピード感にあってこないことに対してイライラしてしまうところがある。0か100かの性格、そしてせっかち。これを聞いただけで事故る確率がめちゃくちゃ高いスポーツカーの雰囲気を醸し出している気がする。めっちゃスピード出るけど、直線コースしか走れない。即大破する。それって、若い時は良かったのかもしれない。勢いがあって、真っ直ぐで、一生懸命で。その爆発的エネルギーは魅力的だったと思う。だが、それにより失わなくていいものも沢山失って来た気がするし、これからはもっともっと、大切なものを失う可能性がある気がしている。そして本当に心から望むことすら、離れていく気もしている。待てない、ということは余裕がないということだ。相手のペース、周りのペースに気を配れないということだ。自分のペースが最重要で、自分の気持ちを満たすことが最重要ということだ。詰まるところ、自分さえ良ければいい、ということだ。これは、ダサい。そんなことに気づくのに35年もかかってしまった。自分にガッカリする。こんなこともわからないまま、今まで何して来たんだ、と言いたい。ネオヒトミは過去の五所尾仁美とは違うので、過去の思考のパターンを冷たい目で見ている。まあでも仕方ない。そういう人間だったのだから、今日から変わればいいのだ。「信じる」を心に掲げて、これからの人生で改心していくしか生きる道はきっと無い。





信じる、という心の強さ







待てないことも、白黒ハッキリしすぎることも、どちらも自分の弱さだと思う。心の余裕のなさの現れだと思う。待つことは自分以外の誰かに決定権やタイミングを委ねるということだ。白黒つけたがることも同様、自分の中でハッキリとさせておくことで安心したいということだ。誰かが「自分から見て」グレーに見える選択をした時、その選択によって自分が害されたくないからだ。私は恐れているのだと思う。自分以外の誰かが、自分と異なる答えや決定をした時に自分が傷つくことを。だから傷つく前にケリをつけたいし、傷を最小限に止めるために性急になるのだと思う。待てない、白黒つけたがる=傷つく前にケリをつけたい。自分と異なる答えや決定が、まるで自分を責めているように感じるのだと思う。お前は間違っている、お前は違う、お前は間違っている。そんなことは誰一人として言ってくる人などいないのに。ここにも過去の私の悪しき習慣が息づいている。だから変える。「信じる」はとても広い意味でのテーマになるのだが、例えば「私の目の前に起こることは全ていい方向に進むと信じる」ということもそうだ。「自分以外の誰かが自分と異なる答えや決定をした時、その先がうまくいくと信じる」こともそう。「白黒ハッキリさせなくても大丈夫と信じる」ことも。「今はまだ見えない未来が、必ず、自分が望むような素敵な未来になると信じる」こともそう。信じることは強さだ。信じることは愛だ。信じることは希望だ。









Life is wonderful.
12月20日の夜、自宅にいる。あと10日で2019年が終わる年の瀬。今年は35年の人生史上最大の変化の年だった。サロンを出したということももちろんそうだが、そこに至るまでに巻き起こった一切合切を振り返るとなかなか良い感じで生き抜いたなあと思う。実は今までの人生でただの一度も【独立して自分の好きなようにやりたい!!!】と思ったことはない。これは1ミクロンも思ったことがない。人口が減少して、若い人が減って、美容室は年々増えて、、、という社会状況を見ても、わざわざ飽和状態の美容業界に個人で突っ込んで行くなんてリスクが高すぎると思って生きてきた。今年の7月に35歳になったが、33歳の秋までそう考えていた。でもその冬には【こりゃもう自分でやるしかねえんだな】という出来事があった。その頃には、ありがたいことに、私を支えてくれるパートナーがそばにいたので、自然な流れでその思いに至った。今はその人に出会うために前の会社に入ったと確信している。この人でなければサロン出店など絶対絶対絶対していない。







サロンを出した、ということは誰から見てもわかりやすい変化だが、それと同じくらい大きな変化が沢山あった。人間関係の変化、価値観の変化、そして自分自身の思考の変化。そして見えてくる新しい世界。「人生を変えたいなら、3つの【間】を変えよ」という言葉を聞いたことがある。時間・空間・人間。時間は生活習慣に沿ったタイムスケジュール、出勤時間や趣味への時間配分もそれに含まれる。空間は生活する環境、家、職場。人間はそのまま人間関係、職場の同僚や友人。これらを変えることで自分を取り巻く全てが変わり、見える世界が変わる。そしてその場にいる自分も変わる。そして私はどうなったか。おかげさまで、つい先日私は古い私を殺して新しく生まれ変わりましたことをここでご報告いたします。ついに、爆誕しました。新しい私。その名もネオ・ヒトミ五所尾であります。







以前、物件探しの際に見ていただいた占い師さんがこう仰っていた。「これからは楽しいことしか考えてはいけないステージです。頑張ったらマイナスポイントになります。頑張れば頑張るほど、よくなりません。」その際は頑張らないことを頑張った。「戦う人生をやめてください」と言われた。いつも誰かを敵に見立てて、その相手を攻略することを目標にして自分の尻を叩いてきた。そうしてスキルアップしてきたし、正直なところ、その習慣はなかなか抜けないもんだな、と思った。「頑張らない」をするためにいただいたアドバイスを聞き、真面目にそれをやった。おかげでとても楽になったし、物件は出てきたし、サロンは無事にオープンした。だが、自分の中では実は「戦う人生」がずっと続いていた。








自分を切り捨てよ



  

目の前に幸福があるのに、それを自分に許さない自分。自分に幸せを与えようとしない自分。約2年間、サロンオープンに向けて虎視眈々と水面下で準備してきた沢山のことを「そんなことは大したことない」と認めない自分。サロンがオープンしても「私が作ったんじゃないし」「できたばっかりでここから続くかどうかわからんし」といって頑なに認めない自分。自分自身をいつも斜めから厳しくチェックして、批判する自分がいた。うっすらと感じてはいたけど、ある日のパートナーとの口喧嘩の中で認めざるを得なかった。いつもいつも戦っていたのはもう一人の自分だった。自分が自分のことを幸せにしようとしない。自分を認めたがらない。その理由はなんとなくわかっていた。幼少期からあるコンプレックス。コンプレックスの内容が問題なのではない。大抵、そんなものは他人からしたらどうでもいいこと。問題はコンプレックスがあることで「こんな自分が幸せになれるわけない」と思い込んでいたこと。そして生きてきた中で少しずつ傷ついてきた傷の蓄積。私には反抗期が無かった。髪を染めたりはしたが、親に噛み付くことも家出することもなく割とまっすぐに生きてきた。成績もそこそこ優秀、友達とトラブルこともない。だが、気づいた。反抗期が無かったというより、自分の好き勝手に振る舞って親を悲しませたくなかったのだ。自分の中で抱えていた傷を葛藤を周りにぶちまけることで周りを傷つけたくなかった。私のために混乱させたくなかった。でも心に溜まりゆくドロドロとしたものを吐き出す方法もわからなかった。それに気づいた時、何もかもが腑に落ちた。どうしてたまにどうしようもなく暴走するのか。どうして両手放しでやったー!と喜びきれないのか。どうしていつまでも自分を幸せにしないのか。
何もかもがはっきり見えた。
そして、決めた。
「そうだ、自分を切り捨てよう。古い自分を殺してしまおう」








切り捨てる、殺してしまう、という過激な言葉をあえて使うのは、そこにそれだけの勢いがないと負けてしまうからだ。人間は習慣の生きものだから気を抜くとすぐに慣れ親しんだ思考回路で考える。愛のある人は愛のある選択をするし、孤独を好む人は孤独になる選択をする。人間の普段の行動はほぼ無意識で行われているのだから、習慣を変えるときはブッチ切って変えなければすぐに戻ってしまう。思考の習慣は無意識が強い。自分で勝手に作り出した悪しき習慣。誰が悪いのでもない、自分が生み出した【孤独な自分】を消し去るには、並の気持ちでは消し去れない。でも、消し去りたい。私は欠陥だらけの人間だ。どうしようもないところがビックリするくらいありまくる。でも、変わりたい。取り戻したい。【孤独な自分メイドイン私】を作り上げる前の自分に。自分を変えたい。普通にしてたら自然に悪い方に行くのだが(悪気はない)、それでも、こんな自分でも悪しき習慣を切り捨てて軌道修正をかけ、自分が目指す人間に少しでも近づきたいと思う。これからもどんどん悪い自分は絞め殺して過去においていき、何度でも新しい自分になりたいと思う。自分が愛するものをしっかりと愛せる人。自分の弱さや愚かさから逃げない人。大切なものを守れる強さのある人。生きている間にそんな人間に少しでも近づきたいと思う。
そしてこんな私に正面から思いっきり刃を突きつけ、命をかけて挑んでくれる人達に愛を渡したいと思う。







ありがとう。愛しています。
これからもずっと。





Life is wonderful.

月曜日の14時、駅前のモスバーガーにいる。朝からサロン内の撮影があった。デザイン会社の方が建築の雑誌に我らのサロンを載せたい、とのことでそうなった。我らのサロンデザインはどこからどう見てもオシャレなのだが、その作り自体が専門家から見ても面白いらしい。LGSという建物の基礎に使うものを全面に押し出したデザインなのだが、本来、このLGSは表に出さない素材なのだ。それを敢えて見せ、お手洗いなど外観がLGSの城のような個室空間になっている。LGSを知っている人からすれば「ほほう!!なんだこれ!!!!」という反応になる。その面白い作りのサロンを雑誌に載せる、とのこと。まだ出来て1ヶ月だが、いよいよ我らの手の中を離れていく。いいぞいいぞ、と思う。もっともっと羽ばたいてくれ。私たちがいなくても、沢山の人々に支えられ生きていく場所になっていってほしいと思う。






先日、ご来店のお客様、約10年ほど担当させて頂いているOさんから面白い話を聞いた。出会った当時、彼女はまだ高校生だったけど、今は立派に社会人である。仕事を掛け持ちしながら、本職の転職も考えている。彼女は自称オタクなのだが、そのオタクの感情についての解説を受けた。オタクたちの間では「推し」というのがあって、これは自分が贔屓にしているキャラクターや人物である。いろんなタイプのオタクがいる。同じアニメやゲームの内で複数の推しがいる人もいれば、推しはただ一人だし、その推しは自分のものだから同じ推しを持つ人間とは友達にはなれない、だとか。そして一度大好きな推しが出来ると「貢がせて!!」「養いたい!!」という感情になる。持っているお金をその推しに全力で注ぎ込みたい、という。私はゲーム内で装備を充実させるためや次のステージに行く時のランクアップや、すぐ続編が観たいから課金をすると単純に思っていたのだが、その考えはどうやら短絡的すぎた。もちろんその動機もあるけれど、深い理由で言えば「推しとの関係を存続させるために課金する」のだ。推しに会うためにはアニメやゲームが継続されなければいけない。運営に資金が無くなれば、推しと会えなくなる。だからそのアニメやゲームなどのコンテンツにきちんとお金を(頑張っていいもの作ってくれよ、と願いと愛を込めて)払い、コンテンツを楽しむ。いわば課金(投資、リスク)の手法をとって、しっかりコンテンツを楽しむ(リターンを得る)という考えがオタクワールドの中にきちんとある。だから推しには全力を投じる。そして全力で楽しむという。なんという投資家マインド。どこでそんなことら学んだのですか。オタクワールドでは経済学を学べるのですか。





また無課金の人でクレームをつける人に対しても考え方がある。「文句言うなら金払ってから言え」と言う。そもそも無料で完全に楽しめてしまえば、作り手には何も残らない。作り続けることなんてできない。ボランティアでやっているわけじゃないのだから、楽しめる限界を設定し、それ以上のものを求めるのならば、その楽しむ権利を得よ(課金しなはれ)と言うのだ。大抵、意味のわからない文句を言うのは無課金ユーザーだ、と彼女は言う。ちゃんとしたオタクならば、推しに会うため、楽しむために自分の持っているものを投資するのは当たり前だし、その分しっかり運営側は期待に応えれるよう頑張ってほしい。しっかり払うから、しっかり頑張る。何よりも、運営が出来なくなって推しがいなくなる事ほどつらいことはないのだから、と。なんと素晴らしい、と思った。泣きそうだ、と思った。そこらへんの経営本を読むよりも、いつだって大切なことはお客さんが教えてくれる。

 
  



あんたはあたしの推しなんだから






自分で店をやる、会社を作るとなると、お客さんからお金をいただく。個人店は特に、お客さんからお金をいただくことにおおかれ少なかれ心のブロックがある。消費税が10%に上がったとき、個人商店がいくつもお店を閉めた。長い間やってきたお店であればあるほど、値上げの際にはとても抵抗がある。だから値上げ出来ずに、料金据え置きで自分たちの利益を少ないままにして営業を続け、結果続ける事が出来なくなる事が結構ある。確かに、文句を言う人もいるだろう。だけど作り手がヒイヒイ言いながら一生懸命汗水垂らして生み出しているもの、その価値を理解せずにお金の問題だけで片付けてしまうお客さんと、今後も長い愛ある関係性を築くことなど出来るだろうか。自分がその人にとっての推しならば、「推しを応援するために、応援できるポジションを取りたい」と自発的に思う人と繋がっていたいし、そのファンのために命を使いたいと思う。本質的な価値を見ようとせず一方的に要求を突きつけてくる人ではなく、お互いに想いを感じて高めていける人と共に生きたいと思う。「あんたはあたしの推しなんだから、思いっきり頑張ってくれなくちゃあたしが困るよ!あたしも頑張るからさ!頼んだよ!」と思い合える人と共に生きたいと思う。少なくとも美容師という職業はお客さんに選ばれる職業だ。お客さんのために媚を売るような考えを持ってはいけないが、目の前のお客さんの満足とは何か?は常に追求し続けるべきだ。

満足のために価格を下げることではない。満足のために自分を下げることではない。相手を上げてこちらを下げることで満足するような相手と長い関係は築けない。では私たちが追求することは何か。それは技術を磨くことはもちろんだが、その美容師自身が自分の持つ尖ったところをより一層磨き、尖り続けることなのだと思う。人とは違う感覚を鈍化せず守り続けることなのだと思う。それに伴う痛みを愛し続けることなのだと思う。
 



 
 Life is wonderful.



12月も半分を終えた。日曜日の営業終了後の自宅。よくお客さんには「これが食べたいって言うものがないんですよね」と話すが、半分は嘘だな、と最近気がついた。自宅に帰ってから食べるものには実はマイブームがある。今はアボガドと生ハムとアヒージョ。まるで酒飲みのアテのような響きだが、乾杯後5分で真っ赤になる私は相変わらず健在である。小さな頃からおつまみの類の食べ物が好きだった。それに拍車がかかっている。アルコールを飲む時でも飲まない時でも食べ物はほぼ変わらない。Amazonプライムでバチェラーを観ながら食べるのか、アルコールを飲みながらアテとして食べるのかの違いだけである。仕事終わりに「家にアヒージョがある」というだけで頑張れる。あのアボガドはちょうど食べ頃の硬さになってるだろう、と思うだけでテンションが上がる。私はハマるとしばらくそれを続けるので、この怒涛の令和元年はアボガド、生ハム、アヒージョで最後までキメたいと思う。






この数年、「好きなものは何?」という問いがとても苦しいものだったなあと思い返している。好きな服、好きな食べ物、好きな匂い、好きなアクセサリー、好きなお店。ずっと以前にも書いたが、私は前の職場に入社する時、自分の住居、仕事道具、服、髪型、仕事の方法、全て変えた。引越しをし、仕事道具を買い替え、服を捨て、髪を伸ばした。それまでの自分をそっくりそのまま跡形もなく捨てた。前の職場ではどうしても結果が欲しかった。結果を手にするために、変えれるものは全て変えようとした。前の前のサロンではどんなに必死にやっても思うように結果が出なかった。毎週、休みを返上して実費で講習に行き、結果を出している美容師さんに会いに神戸、京都、東京にも行った。相談もしたし、実践もした。それでもなかなか目標には届かず、そのサロンで言われた言葉は【お前のせいで○○さん失客したやろ】だった。数日後、○○さんは普通に来店した。
変えるしかなかった。何もかも。信じてきた人も。信じてきたすべてと縁が切れてしまっても。何が正しいのか、正しくないのかもわからない。一生懸命やってきたのに結果は出ず、上司には心ない言葉を浴びせられた。きっと自分の何かが悪かったんだ。でももう何が悪いのか、何から手をつけていいのかもわからない。だから絶対自分には合わないと思う大型サロンの門を叩いた。自分が嫌っていた世界は、自分の知らない世界を見せてくれるかもしれない。嫌いなことの中からでも学ぶ事があるはず。それを取りにいくしか道はない。自分の全てを変えてしまおう。好みなんかいらない。結果を出すための方法を知りたい。履いたことのないヒールを履き、学生以来着たことのないスカートを着て、私は店長になった。






自分の好みを封印して結果を出した私は、自分の好きが見えなくなった。好きなものへの絶対的な愛情も感じなくなった。欲しいものが無い。服を買いに行っても、何がいいのかわからなくなって買えなくて悲しくなってしまう。情けなくて泣いてしまう時もあった。たかが服が買えなかったくらいで、だ。いつからか自分自身を疑うようになった。頭の中で声がする「自分のやり方で結果が出なかったんだから自分の選択が悪いんじゃない?」「本当にそれでいいの?」「それはイケてるの?」「自分の好みを出したら失敗するんじゃない?」自分が決断しようとすると、もう一人の自分が耳元で囁く。「本当にお前にできるの?失敗ばかりしてるのに?」










ある人が言った「あなたに魅力を感じない」


それは私もそう思う。



   






自由の身






サロンをオープンして1ヶ月。少しずつ地に足が着き始め、落ち着いて過去を眺め始めている。過去の5年で目まぐるしく変化した私は、以前のサロンに在籍した時よりも、あの頃を見つめている。前の前の個人サロンを離れた時のこと、そして前の大型サロンに在籍していた時のこと。過去に封印した自分を、今こそ解き放つ時なのだと思う。大人しくさせておいた自分を、もうそろそろ解放してあげてもよいのだ。好きにさせてもよい。そのためにこのサロンは生まれたのだ。自分を縛り付けるものはもう何もない。好きなものを好きといい、人が喜ぶことを思う存分してもいい。ようやく長い長い学びの時を経て、自分自身を取り戻す時がきた。







Life  is   wonderful.
ストーブが可愛くて可愛くて。




12月一発目の記事。11月6日に新しいサロンをオープンしてもう1ヶ月。あっちゅーまだった。というより自分でサロンを作ろうか、と考え始めた期間を含めたこの約2年があっちゅーまだった。工事が間に合わず、養生シートの壁のまま、住所電話番号非公開でスタートしたサロンもようやく落ち着いてきて毎日楽しく生きている。養生シートの部分はちゃんとガラスが入ったし、オーロラ色に輝く素晴らしいカーテンも取り付けられて毎日揺らめいている。さあ、ようやくここからスタートである。素晴らしい環境が整ったから終わり、ではない。この場所を活かして新しい物語を作り出すのが私たちの役目である。







お店を作ること=何か事を起こすこと。行動を起こすこと。前回の記事では表面を撫でるような遠回しな書き方をした。お店を作ることで実際に様々な人間の側面を見る事ができた。まずはポジティブな体験。沢山の人の応援、優しさ、暖かさに触れた。工事を担当してくれる会社も会社によって全然スタンスが違う事、オープンしてからはお客様からの労いの言葉、出来上がったサロンへの賞賛の言葉、一生懸命に私たちと寄り添ってくれる人の愛に触れた。こんな経験はなかなか出来ないと思う。事を起こした人間でないと感じる事が出来ない喜びと愛情。そしてそこから生まれる責任感。食べ切れないほどの差し入れの数々、お花、笑顔。この場に立つまでに感じてきた数え切れない葛藤の日々はその一瞬の笑顔で全て帳消しになってしまう。私たちが決断してきたことは間違っていなかったという安心感。本当にここまで頑張って良かったと、ここまで生きてきて良かったと思う瞬間。






人は他人で傷つかない






そしてネガティブな体験。言いがかりをつけられている。そして関係のない方々にもそれを言いふらされている。率直な感想としては、想定内だった。感情面で言うと、悲しい気持ちになった。総合で表すと、予想通りだったし残念な気持ち。
誰かが何か新しい事を始めるときは内容がどんなであろうとひとまず祝福したいと思う。その決断に至るまでの過程をまずは讃えたい。色んな葛藤の時間がきっとあったのだろう、それでも新しく何かを変えようと思ったのだろう、というその一点で祝福したい。素晴らしい、新しいあなたになるんだね、頑張って欲しいな、という思いを持つように心がけたい。(もし自分にとってネガティブな事であったとしても、そこは頑張って受け入れたい)それが感情的に悲しい気持ちになった理由だ。だがしかし、それは私の考えなのでまあ違っても仕方ないなとは思う。




残念な気持ち。関係のない方々を巻き込んでしまった。すいません。本当に。人のことを傷つける発言は、本当の意味でその人のことを傷つけることは出来ない。その発言をする人は、実は自分を傷つけている。相手のことを攻撃している気持ちになって、優位な立場にいるような気がするかもしれないけれど、それは完全な思い違いだろう。
自分の人生に関係のない人のことを悪く言う。悪い言葉には毒がある。陰口というのは、本人の前では言わず、自分達だけで言う。それを聞いているのは自分達であって、自分で自分に毒を盛っている。その毒はその人の顔色を変え、表情を陰険にし、さわやかな笑顔を濁らせる。ネガティブな言葉、ネガティブな態度、それによって蝕まれているのは言われた方ではなく、それを口にしている方なのだ。嘘だと思うだろうか。なら陰口を言っている時の顔をインカメラでチェックするといい。眉根のあたりに影があるはずだから。関係のない人はその表情から、どちらが本当なのか本能的にわかるだろう。人を闇に蹴落とすような発言が誰かの心を明るくすることなど絶対に出来ない。
人は誰でも、光に集まりたいのだ。






何かをはじめるとき。きっと誰にでもそういうタイミングはある。それを「いいね」という人か「それはやめたほうがいいんじゃない」という人かをよく観察したほうがいい。その人の発言はその人の人生だ。誰に相談をするのか、誰に自分の心中を明かすのか、それもよくよく吟味しなければいけない。その人の決断の仕方、行動を観察しておいたほうがいい。ブレーキをかける人はなぜかけるのか。その人自身は納得した人生を生きているのか、その人の人生を見て自分は魅力的だと感じるのか。
大きな決断をするときほど、相談相手は選ばなければいけない。言いがかりをつけ拡散している人は、私との関係が悪い人ではなかった。人間どこでどうなるのかわからないものだ。その人を責めるつもりはない。自分で闇に突き進んでいくのだなあ、と見送っている。







肯定する生き方か、否定する生き方か。





LIFE is Wonderful.


前回の投稿から1ヶ月以上も開いてしまった。10月の後半から11月の半ばまで、私は自分の想定を遥かに超えたスピード感で親愛なる協力者達と共に愛と温もりに溢れた新しい生活環境を作り上げた。新しい生活。新しい習慣。その一つ一つをゆっくり味わうにはもう少し時間がかかりそうだ。だが、現実的に現実は変わった。ここに至るまでの2ヶ月弱を細かく記すことはとても難しい。あまりに色んなことがありすぎたし、出来事を振り返って眺めるにはまだ早い気もする。O型らしくすんごい大雑把にまとめるならばとにかく「毎日が限界ギリギリに必死だった」ということだけだ。曜日の感覚も無い、心の余裕もない状況は私たちをとても成長させた。そして私たちの間に新しい信頼関係を築き、今まで以上に絆を強くした。と、思う。人間が本当の意味で成長するのは限界を超えた時だ。今までの自分の世界には無い景色を見た時、知らない場所で自分が決断をしなければならない時、やったことのないことをやらなければならない時、私たちは脳味噌をフル回転させ、自分の経験や知識を総動員する。目の前のことを何とかするために全勢力を注ぐ。そのギリギリのやりとりが、私たちを今までとは違う場所に運んでくれる。逃げることができない状況は自分の本当の強さと弱さを知るキッカケを与えてくれる。





ものすごくベタな流れかもしれないが、事を興したことで自分の中の何が変わったかというと「ありがたいな」と思うことが格段に増えた。これはもうすこぶる成長率で飛躍的に回数が増えた。3ヶ月前の私の感謝レベルが1だとすると、今の私は感謝レベル6くらいになった。マザーテレサを感謝レベル20として考えてもらえたらと思う。まだまだ私レベルではマザーの半分にも満たないけれど、それでもこの短期間での成長率である。現在、私は絶賛「ありがてえ」キャンペーンの真っ只中で、願わくばこのままありがてえが定着して、感謝することを生業としたい。そしたら間違いなく人生価値組である。
え?いやいや、「勝ち組」なんかじゃねえよ、人生に勝ち負けなんてねえんだよ。「人それぞれが大切にしたいと思う価値を大切に生きてる組」だよ。人に対して「ありがてえな」と思うことを大切にしてて、不幸な人間なんている?大切にされない人間なんている?35年生きてきて私は見たことがないのである。周りの人に対して些細なことでも「ありがとう」「嬉しいよ」「感謝してるよ」っていう人間がものすごく不幸な状況を。だからもしそれで人生がうまくいってない感じの人がいたら是非教えて欲しい。その人と一緒に共に考えてみたい。感謝する人間が不幸に見舞われる理由を。これは予想だが、感謝する人間は自分を不幸だとは思わない。価値組の人たちはどんな些細な日常の中でも価値を見出すのが得意で、それをエネルギー源として生きている。側から見たら大変な目に合っていても、大変な境遇の中で感謝のキッカケを探して生きていくのだと思う。限界まで追い込まれたこの数ヶ月でそういう人間に少しだけ近づけた気がしている。






  

ありがてえ毎日




 
何か事を興す。すると世界から反応が返ってくる。ポジティブな反応ばかりであれば嬉しいけど、もちろんそんなに上手くいかないのが世の常である。世の中には色んな人が、色んな考えがあるのでどんな反応であろうと受け止める。または、受け止めない。どんな反応をするのかはその人個人の主観であって、私のものでは無い。だから何を受け止め、何を受け止めないか決めるのもまた主観であると思う。何を受け止め、受け止めないかはこちらが決めるし、逆にそちらはそちらで決めればいいじゃん、と思う。この考えが正解だ!と決めつけない環境を作りたかった。だがしかし、一緒に時を過ごす人は同じような美意識がある人とがいい。どんな価値観も考えも否定はしないけれど、他人の陰口を言ったり、粗探しをするのを楽しいと思う人とは同じ場所で生きたくはない。そういう方々はそういう方で共に生きていくことをお勧めする。私は他人の夢や希望を応援したり、悩んでいたら少しでも力になりたいと思う。お互いの世界を否定はしないけど、住み分けは必要だと思う。きっとお互いの精神衛生上にとってもその方よろしいと思う。そしてこの度、晴れて自分が望む世界に辿り着くことが出来た。みんなが優しい声をかけあえる世界。優しい、は「人を憂う」と書く。人のことを心配する心がある世界。相手のことを考える。大丈夫かな?と気にかける。もし世界の人が「人を憂う」回数が5%でも上がれば、世界は激変するように思う。煽り運転はなくなるかもしれない。覚醒剤に手を出さないでいれるかもしれない。自分を傷つける人が激減するかもしれない。全世界から戦争を無くそう!なんて大層なことは思っていないが、自分の周りの半径2メートルくらいなら、安らかな場所にする工夫は各々の努力で出来るんじゃないかとは思う。






「感謝は素晴らしい」とか「感謝があれば何でもうまくいく」なんて事は到底思っていない。感謝する気持ちは自分の中から湧いてこないと全く意味が無いと思っている。この「湧いてくる」ところまで自分の状況を持っていくことが大切で、それはきっと同じ毎日の繰り返しではなかなかキッカケが掴めないんだよな。自分の環境を変えるとか、ちょっとリスクある選択をするとか、自分を外界に晒して初めて感じるキッカケを手にするんだよな。私自身はこの今の環境に至るまで、実は丸2年ほどあれやこれやと動いていた。この2年は自問自答の毎日だったし、何も変わらない、まったく何も進んでいない、ように見えて、本当に苦しい2年でもあった。事が動いたのがほんの数ヶ月前である。今は本当に感謝の毎日で自分でも戸惑うくらい「ありがてえ」という気持ちに溢れている。うおー!ありがてえぞー!まじで!!!!ほんとありがと!!!!いつも救われてるよ!!! 
ここに至るまでに沢山の人の協力があった。今でも沢山の人が私たちを支えようとしょっちゅう声をかけてくれる。励ましてくれる。見守ってくれる。なんかあったら即連絡しろと言ってくれる。いっぱいお菓子をくれる。こんな環境で生きていることを心から感謝している。どんなことでも受け止めたいと思う。それは事を興した私たちの責任だろう。ポジティブな反応はもちろんありがてえし、ネガティブな反応はポジティブな反応に一層のありがてえを与えてくれる。つまりどちらの反応にしても、ひっきりなしに感謝を感じて仕方ないことも、全てはこの素晴らしい毎日を過ごすために必要な出来事なのだろう。






どんなことからでも「ありがてえ」を探してやるさ。



Life is WONDERFUL.