わたしの 何かが 誰かを照らす

そういうものにわたしはなりたい

信じる、という心の強さ

12月23日月曜日の21時44分自宅にいる。今日は毎年恒例の「断捨離デー」だった。ここ数年、クリスマス付近になると断捨離をする。今日も気前よく色んなものを捨ててやった。着なくなったスポーツウエア、観葉植物用の小さな鉢、昔のノート、分類のしづらい細々した燃えないゴミたち。断捨離を始めると私の目は獲物を狙うスナイパーになる。必要のないものをギラギラした目で探しながら、ぽいぽいぽいぽいと袋に詰め込んでいく。物に関しては、「1年手を触れなかったものにはこれからもご縁が無い」と考えているのでとても潔く進むが、ノートや手帳の中身など思い出関連に関しては少し後ろ髪を引かれたりもする。ちょろっと見返しては「あー、この時これやってたんだな。。。頑張ってたな。。。泣ける。。。」なんて感傷に浸りながらパラパラページをめくる。だが、しかし。「これからの私には必要ない!!ふん!!」と鋼のような強い意志でパタっと見開きを閉じて、さっとゴミ箱へ突っ込む。さよなら、私。ここまでようやってきたな。1年前とはえらい変わりようやで。また来年の今頃はそんなふうに思えているさ。さて、これでまた少し余白ができた。2020年の新しい風を取り込む準備が出来たのである。(年内はまだまだやるつもり)





  
2020年があと1週間ほどで幕を開ける。2020年ってなんだかまるで近未来みたい。「2020年宇宙戦争」とか映画のタイトルで使われそう。2020年て本当に来るんだね。そんな能天気な気分である。先日、過去の私を殺して新しいネオ・ヒトミ五所尾と書いたが、ネオとしては2020年ももちろんテーマを掲げたい。ちなみに2019年は「ユーモア」だったが、これは正直、あんまり出来なかった。追い込まれた時も「ユーモア」を持って生きたい、という思いがあったが、追い込まれたときはただひたすら追い込まれてしまった。パートナーには当たり散らすし、親には連絡しないし、自分の器の小ささが露呈した。私は必死なんだ!という言い訳を振りかざし、身内からは「こいつはめちゃくちゃ性格悪いな。すんげえ小せえやつだな。」と認識されたと思う。これに関しては頭をいくら下げても足りない。もはや下げる頭すら見あたらない。私の容量を越えていた。そしてそんな時の私こそ、私の本性なのだった。ユーモアのかけらも無い態度をとったことは反省しても足りないけど、反省するしか方法が無いので今年いっぱいは反省します。そういった残念な面もあった2019年のテーマ「ユーモア」を経て、まあユーモア出来なかったけど、(存在は割とユーモアがあったとは思うから)2020年はまた自分にとって恐ろしくハードルが高いテーマ、、目標?を掲げたい。2020年の生きるテーマは「信じる」。そう、ビリーブ。







35年生き長らえると、流石に自分の悪い癖は把握できるようになってきた。これもまた周りの人たちのおかげ様ではあるのだけど、私はあまりにも物事を白黒ハッキリつけすぎる。そして、待てない。すぐに答えが欲しい、結果が欲しい、自分のスピード感にあってこないことに対してイライラしてしまうところがある。0か100かの性格、そしてせっかち。これを聞いただけで事故る確率がめちゃくちゃ高いスポーツカーの雰囲気を醸し出している気がする。めっちゃスピード出るけど、直線コースしか走れない。即大破する。それって、若い時は良かったのかもしれない。勢いがあって、真っ直ぐで、一生懸命で。その爆発的エネルギーは魅力的だったと思う。だが、それにより失わなくていいものも沢山失って来た気がするし、これからはもっともっと、大切なものを失う可能性がある気がしている。そして本当に心から望むことすら、離れていく気もしている。待てない、ということは余裕がないということだ。相手のペース、周りのペースに気を配れないということだ。自分のペースが最重要で、自分の気持ちを満たすことが最重要ということだ。詰まるところ、自分さえ良ければいい、ということだ。これは、ダサい。そんなことに気づくのに35年もかかってしまった。自分にガッカリする。こんなこともわからないまま、今まで何して来たんだ、と言いたい。ネオヒトミは過去の五所尾仁美とは違うので、過去の思考のパターンを冷たい目で見ている。まあでも仕方ない。そういう人間だったのだから、今日から変わればいいのだ。「信じる」を心に掲げて、これからの人生で改心していくしか生きる道はきっと無い。





信じる、という心の強さ







待てないことも、白黒ハッキリしすぎることも、どちらも自分の弱さだと思う。心の余裕のなさの現れだと思う。待つことは自分以外の誰かに決定権やタイミングを委ねるということだ。白黒つけたがることも同様、自分の中でハッキリとさせておくことで安心したいということだ。誰かが「自分から見て」グレーに見える選択をした時、その選択によって自分が害されたくないからだ。私は恐れているのだと思う。自分以外の誰かが、自分と異なる答えや決定をした時に自分が傷つくことを。だから傷つく前にケリをつけたいし、傷を最小限に止めるために性急になるのだと思う。待てない、白黒つけたがる=傷つく前にケリをつけたい。自分と異なる答えや決定が、まるで自分を責めているように感じるのだと思う。お前は間違っている、お前は違う、お前は間違っている。そんなことは誰一人として言ってくる人などいないのに。ここにも過去の私の悪しき習慣が息づいている。だから変える。「信じる」はとても広い意味でのテーマになるのだが、例えば「私の目の前に起こることは全ていい方向に進むと信じる」ということもそうだ。「自分以外の誰かが自分と異なる答えや決定をした時、その先がうまくいくと信じる」こともそう。「白黒ハッキリさせなくても大丈夫と信じる」ことも。「今はまだ見えない未来が、必ず、自分が望むような素敵な未来になると信じる」こともそう。信じることは強さだ。信じることは愛だ。信じることは希望だ。









Life is wonderful.

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