今週の月曜日は大阪の南堀江で開催された「美容師によるSNS活用セミナー」に行った。基本的に美容師のセミナーというのはディーラーさんやメーカーさんが主催するものがほとんどで、今回このSNSセミナーを知ったキッカケは4月に流れてきたtwitterでの告知だった。前々から個人的に運用の仕方がわからず放っておいたSNSに関する内容だったので、そのtwitterでのセミナー案内を見たときは即申し込んだ。会ったこともない、知りもしない美容師さんのtwitter投稿である。そのtwitterをキッカケに彼のブログを読み、行動や考えを知る。そしてtwitter上でどんな人達とやりとりしているのかをリサーチする。ある程度どんな人なのか理解した上で、単身でセミナーに乗り込んだ。
行ったことのあるセミナー会場だったので場所で迷うことはなく、すんなりと会場に着いた。会場の入り口でセミナー代を支払い、中に進む。【おお、なんだこの威圧感は、、、】と感じたのは9割近くが男性の美容師だったから。約40名程いたと思うが、その9割が男性。久しぶりに男性が大人数になった時の独特の空気感を感じた。男性には悪いが、正直155センチの身長の私からすれば男性の集団は重い、硬い、苦しい。【ああ、だからソフトな男性ってそれだけでモテるんだな】っと勝手に脳みその中で言葉が聞こえた。考えたのでは無く、勝手に脳みそが喋った。

初めの印象とは裏腹にセミナーは思いのほか楽しかった。現役美容師の講師が2名、それぞれにブリーチカラーとSNS活用の2本立てを同時進行で進めるセミナーだった。お二人とも初めてお目にかかる男性美容師さんで、お一人は佐賀県のサロンでスタッフを抱えるオーナーさん、もうお一人は大阪の一人サロンのオーナーさん。それぞれの個性が際立っていた。佐賀のオーナーさんはユーモアたっぷりのちょっとおかしな発言もしちゃう面白い方で、大阪のオーナーさんは丁寧でキチンとした印象の研究者のような方だった。もちろんメガネはかけている。こういった自分のことをまったく知らない人達が集まる場所に行った時にとても安心する性質が私にはある。他人なのに、話がわかる。初めて会ったのに、共感する。相手の言葉や考えの中に自分のカケラを発見して、ああ私は大丈夫だ、と思う。目の前の見ず知らずの、だけど美容師を一生懸命にやってきて生きてきた人の中に自分と重なる部分を見つけて、このままでいいのだな、と落ち着いた気持ちになる。単身で男性9割のセミナーに乗り込んで安心する、というのも共感を得ることは難しいかもしれないが、事実、身内と
では感じられない種類の安心感を感じる。それはいつもの世界(日常)が全てでは無い、という安心感だ。






世界はきっとグレー



人間の行動範囲はとても狭い。いつもの職場、いつもの同僚、会ったことがあるお客さん、
取引先、友達、先輩、後輩。心地いい空間ではあるが、退屈。守られた世界、似たような価値観、同じ生活の繰り返し。毎日を生きていくにあたってルーティンになることは悪いことではなく、忙しい私たちにとってむしろルーティンであればあるほど作業効率がよい。ルーティンが必要な時期、というのももちろん、ある。人間の行動の意志決定については2種類あると思う。能動的に行動する人間
と、受動的に行動する人間。自ら考え、それを実行する人間と自分以外の人間からの指示によって行動する人間。後者の人にはルーティンの毎日はそれほど苦痛ではないのかもしれない。だが、前者の人には「自分以外の人間が作ったシステム」の中で行うルーティンの毎日はとても生きにくい。
私のように前のサロンで8年もの間、ほぼ放牧に近い形で育った放牧人間にとっては生きにくすぎて困る方式だ。人間にとって毎日生活する環境は【世界】だ。だから自分以外の人間が作った世界でルーティンの毎日を送ることは世界が閉じられたものであると感じてしまう。生きづらい。広げようとしてもなかなか思うように広げることも出来ない。ならば思い切って誰も知らない世界に飛び込み、多少コケたり頭ぶつけたりしながらも、外の世界と自分が触れ合った時に感じる新鮮さを感じたい。これは一人旅の時にも同じように感じることだ。「ああ、、いける!全然、あたし、、、いける!!」という感覚。良かった、いつもの4畳半の世界以外にも世界は広がっている。生きている以上は出来る限り世界を広げていきたいと思う。ルーティンが必要ならばそれも自分で決めたい。だが、小心者だから孫正義氏のような突拍子も無いことが出来るわけではない。それでもなんとか、三歩進んで三歩戻ろうが、新しい世界に触れたいのだ。次は四歩目が出せるかもしれない。世の中にはもっともっと色々な世界が広がっているはずだ。私はもっともっと世界を知りたいと思う。私の中にある常識などひっくり返してくれる世界を求めている。世界は広げれば広げるほど、きっと二極論では語れないようになるのだと思う。二極論というのは【こちらが正解、こちらが不正解】【成功と失敗】【白と黒】 今まで34年の人生を私は二極論で生きてきた。白と黒に分け、敵と味方に分け、成功と失敗に分け、出来る人と出来ない人に分けてきた。
世界を広げたい、と思いながら。大きな人になりたい、と思いながら。でも二極化してしまえば、一方は認めて、もう一方は認めないことになる。正解しか取らない選択は、大きな視野で見れば果たして「正解」なのか?完全なる白と完全なる黒しかこの世に存在しないのか? それって、世界、狭いんじゃあございません?ということに思い至った。
自分で世界を切り分けていたのは、そうです、私なんです。




34年程度しか生きていないくせに、何をわかった気になっていたのかと自分で自分に全力のデコピンを食らわしてやりたい。



ユーモア系美容師さんも、
研究者系美容師さんもどっちもいい。
行動する人間も、
しない人間もどっちもいい。
ルーティンにしても、
しなくてもどっちもいい。
成功しても、失敗してもどっちもいい。
落ち込んでたら、落ち込んだままでいい。
死にたいと思ったら、
おー!!死にてえ!!!と叫べばいい。




それは物事の表面層であって、目に見える範囲の結果でしかない。
きっと本当に大切なことはそこに至るまでの間、自分の心の中でもう一人の自分とどのようなやり取りをしたか、ではないか?と今のあたくし思うとります。


LIFE is wonderful.
最寄駅から5つ離れた駅前のジャンボカラオケ広場にいる。34歳にして初めての【フリータイム一人カラオケ】に挑戦してみた。昨日、11時のオープンに合わせて予約をし、3時間ほど歌い続けた今、昼ごはんとしてジャージャー麺を食べた。一人で歌い続けることは予想以上に大変だった。せっかくなので全国バトルをしたり、精密採点なるものを導入して自分の歌唱力がいかほどのものなのかと試してみたがこれが予想外に点数が悪い。中の上、くらいに思っていたがとんだ勘違いであった。中の下、または下の上くらいの採点を付けられながら、【なんて思い上がった感覚で歌を歌っていたのか】と少しだけ恥ずかしくなった。いや、でも待て、そもそも私は【きちんと歌う】ことに命をかけたことはただの一度もない。【感情を込めて歌う】ことにこそ命をかけているではないか。そう開き直りながらも少しだけきちんと歌うことを心がけたら、採点画面には【情感たっぷりで聴き入ってしまう魅力があります】と出た。ほら見ろ。ほーれ見ろ。、、、、そうか、やはり他者が聴いたときの聴こえやすさも大事なんだな。。と次回からは【きちんと歌う】ことも念頭に入れて歌を歌うことにしようと思いなおした。







先週、占いの先生から頂いたお言葉【頑張ってはいけない】を頭の中に叩き込んで毎日を過ごしている。朝晩唱える私のための呪文も欠かしていない。たった10日ほどではあるが、少しずつ立ち位置が変わってきたと実感をしている。今までなら感情が昂ぶっていたような事で昂ぶらないようになってきたし、何もしない自分を少しずつ認めることが出来ている気がする。私はひとつコレと決めたらそればかりが頭を占めてしまうタイプなので【頑張ってはいけない】と決めたら頑張ってはいけないを頑張ってしまう。物事を宙ぶらりんのままにしておくことが出来ない。答えを出さないまま放っておけない。【頑張らないとは如何なるものか?】という哲学すら始めてしまう。これは私が親しくお付き合いしていただいている方々も似たところがあるのではないかと思う。似た者同士だから一緒に過ごせるのだと思うし、完全にこれは自慢だが、自分が親しくお付き合いさせて頂いている方には本当に真面目で頑張り屋さんしかいない。なので私のこの成長期をキッカケに、皆様にも【頑張らない】を始めて頂けたらと思う。正直、難しい。今までの思考回路を根本から変えていく作業になる。苦しい。わかんない。これでいいのか。こんなのでいいのか。新しい世界では誰もが初心者だ。恐る恐る一歩ずつ足元を確かめながら、赤ちゃんが初めてタッチをしてこけそうになりながら少しずつ前に進むように、私たちは【頑張らない】世界に足を踏み入れていく。失敗してもいい。こけてもいい。やったことが無いことは、初めはなんだって難しい。









両方とも大切


今まで頑張ってきたのは何のためか。自分のためか。他人に認められるためか。親に認められるためか。親や他人に認められれば、そこで頑張ることを辞めるのか。親に「頑張っているね」他人に「ストイックですごいよね」と言われることがゴールであるならば、その言葉を聞いた瞬間に力を抜いてもいいはずではないか。他人の目が届く、見える範囲だけで頑張っているふりをすればいいではないか。仕事で必要ならばまだしも、プライベートにおいて自分の中でルールを作ることも、todoリストを作ることも必要ではないのではないか。では何故そこまで自分の行動を管理して、整備しておく必要があるのだろう。答えは自分で自分を認めることが出来ないからだ。ありのままの自分を認めてあげることが出来ないから、タスクを課すことで、それをクリアさせることで、よくやってる自分自身を認めようとする。自分を保とうとする。私の場合はまったくもってその通りで、自分自身に絶対的な肯定感が無い。親に愛されていないとか、友達がいないとか外的な要素ではなく、自分の内面にある肯定感の話だ。それが不安なために様々なことに手を出し、心の奥にある穴を埋めているのだということにようやく、辿り着いた。




頑張らない、ということは自分にタスクを課さないということだ。
何もしなくても、
自分には絶対的な価値がある。
自分は普通にしているだけで、
誰かの役に立っている。
生きているだけで、愛される。
何もしなくても、生きていていい。




自分の存在を
【生きていていいんだよ、と】
許すこと。





これを受け入れることは、とても難しかった。だが、約10日間に渡って苦しんでいる私の前についに昨日サプライズプレゼントが送られてきた。


毎月のように来てくれるショートカットの女性のお客さんに質問をした。その女性には20代前半の娘さんがいる。投げかけた質問は【空いた時間に何をしていますか?】その女性のお客さんは【YouTubeでバレエの映像を見たり、ひたすら毛筆で文字を書く動画を見ている】と言った。内容も面白かったが、それよりも衝撃だったのは私がひとつ質問をして話を聞くだけで、その女性は興奮して発汗するほど楽しそうにその話をしてくれたのだ。その楽しそうな笑顔を見たとき、これか!!!!!と思った。何かしなければ、と思って準備していなくても人は十分に喜んでくれる。向き合うだけでいい。たとえ私が掃除や洗濯をきっちりしていなくても、料理が下手くそでも、1つやったら3つ忘れる性格でも、きっと大丈夫なのだ。自分にルールを作って愛そうとしていたのは自分だけで、周りはそんなこと何一つ、望んではいない。自分にタスクを課しルールを作っていた自分が、一歩後ろに下がった気がした。


自分にタスクを課していた自分はどこから来たのか。
この存在を否定してはいけない、と思う。これは幼い頃誰かの心無い言葉や行動で傷ついた時に、もう二度と同じように傷つきたく無いという思いから生まれたもう一人の小さな自分だ。幼い自分はこの弱い自分を守るために、強くならなければいけなかった。傷ついた自分を鍛えるために生まれたのだ。だからこの存在を否定してはいけない。きっと弱い自分も、強い自分も遠い昔、同じ様に傷ついたのだ。それを両方ひっくるめての今の自分であるし、両方ひっくるめて【もう大丈夫だよ】と言って認めてあげたいと思う。







LIFE  is   wonderful.

自宅から自転車で10分ほどのガストにいる。今日は17時きっかりに美容師の業務を終え、自宅に帰り洗濯を回して干し、母親に占いの結果を電話で報告した。その後、愛用して6年ほどの小さな白い自転車で1時間ほどウロウロしてこのガストまで戻ってきた。私は自転車であてもなくサイクリングするのが好きだ。あてはないのだが、実はこのサイクリングには大切な役目がある。自分の頭の中の散らかりを整理するときによく自転車に乗る。流れる景色を見ながら、沈みゆく夕日を見ながら、顔にぶつかる小さな虫を払いながら、日常的に頭の中を回っている考え事をひとつひとつ眺め、ひっくり返しては眺め、確認したらそっと確認済みの箱に入れる。確認を終えざっと俯瞰し、どう感じるかを自分に問うと、日常的に考えていた事は自分にとって優先順位が高いものに自然と整列する。自分の足が地に着く感覚だ。




占いは私が尊敬する先輩に紹介して頂いた。ありがたいことにその先輩は私の鑑定中私の横にいて、一言たりとも漏らすまい、と占い師さんの発言を記録してくれた。私は途中盛大に泣いたので、うろ覚えのその時の内容は先輩が記録してくれた用紙が私の記憶を補ってくれた。私は占いに行くのが初めてだったので究極に緊張していたが、90分の鑑定のあとはビックリするほどスッキリとしていた。もし恐ろしいことを言われたら、、と不安に思っていたが、怖いことは一つも無かった。自分が最近薄々感じていたことを初対面の占い師さんにバシッと指摘され、近い将来について抱いていた不安にも一筋の光が見えた。今のタイミングでこのような機会を得られたことは本当にありがたいことだし、必要なタイミングだったのだと思う。こうなるべき流れだったのだとも思う。せっかくわかりやすく示して頂いた道標だから、それを信じて歩きたいと思う。









「頑張ってはいけない」というステージ

【人生には頑張る時期、というのが人それぞれにあって、その時期を過ぎた人はその後、頑張らなくてもいいのです】と占い師Tさんは言った。私は頑張るステージを終了し、今度は「頑張ってはいけない」というステージに入った。そこでは「頑張りをエネルギーにする」のではなく「楽しみをエネルギー」にするステージであり、自分にどれだけ優しく接するかが課題となる。言わば今までとはまったく180度逆の発想である。◯◯すべき、◯◯しなければいけないを完全に抹消する。◯◯したいしか採用しない。徹底的に自分のやりたいことしかやらず、怠けること。これが私の課題である。そうすることで一つ上のステップに上がり、自分の求める未来が早く近づいてくるーーーーー。
実は少し前から薄っすらとそんな感覚を感じていた。「詰め込んでやればいいってもんじゃないのかも」
SNSを毎日投稿すること、ブログを毎日投稿すること、税金の勉強を進めること、、、確かに必要なことではある。平日17時に仕事を終えたのだから、何か別のことを「しなければならない」と思っていたのは事実だった。私にとってSNSやブログを毎日上げることは苦にはならない。だが、基本的に仕事を始めとしてほとんどのことは苦にならない性質なのだ。掃除も、洗濯も、勉強も。ただ心から望んでする、ではなく、自分の行動の中には圧倒的に「したほうがよいだろうからしておく」という発想が多い。「可」の領域が広過ぎて、自分の本心の「やりたい!」が埋もれている。「したほうがよい」の発想は保険をかけることと同じで何かに備えての発想。「やりたい!」は情熱だ。失敗するかもしれないけど、やりたい!誰になんと言われても、やりたい!そして最終的には「絶対に
なんとしてもやる」という思いは、強力なポジティブエネルギーの塊を心の中に抱くことになる。これが楽しみをエネルギーにするというステージなのだと思う。【この発想のことしかしない、という課題はとても難しいと思います】と占い師Tさんは言った。【自分に対して「こんなに何もしなくていいのか?」という意識が向くだろうし、罪悪感を持つことになります。罪悪感を持っても、何もしなくていいんです】と。ほほう、そうなのか。そんなになのか。ならば、そうしよう。素直さだけは34年間磨き続けてきたつもりだ(アドバイス聴く人は選ぶけど)。


90分の間、私の今までの生き方とこれからの生き方についてのお話をした。
幼い頃から常に戦う姿勢で生きてきて、それで成し得てきた今までの人生から卒業するステージ。
自分を甘やかし、それでも自分を認め許すこと。経験したことないことは初めとても難しい。基準が全然わからない。洗剤ひとつ買いに行くことにすら、これはやりたいことなのか?と問うている自分がいる。



最後に今回の占いの中で教えて頂いたことの中で誰にでも当てはまり、最も強力なエネルギーがあり、大切であることをシェアしたい。



【自分を1番大切にすること】
周りに幾ら気を配っていても、大切にしていても、
自分を大切にしないなら人生はどうしても行き詰まるそうだ。
自分の心を大切にし、自分の考えを認めて、出来ない自分も許すこと。
それが出来ると、自然と周りにも同じように出来る。




イライラする出来事が多いように感じる人がいたら、実はもしかしたら
自分自身に苛立っているのかもしれない。



LIFE is  Wonderful.





10連休ゴールデンウィーク7日目の今日、私は10連勤明けの1日休みだった。朝から張り切って1時間ほど外にジョギングをしに行った。ジムで走るのと地面を走るのとはやはり違う。地面を走るほうがよほどしんどい。気を抜けば蹴つまずいて転んでしまいそうなので慎重に走った。数年前はよく早朝に走っていた。自宅での軽い筋トレは一人暮らしを始めた26歳の時から細々と続いている。痩せたい!という願望よりはむしろ今より醜くなりたくないからと、蹴つまずいて転んで骨を折る、というたまに聞く噂の的には死んでもなりたくないからだ。ジョギングというただ走る行為は死ぬほど嫌いだが、それで足腰が強くなって、中身の骨や肺まで鍛えられるのだから一石二鳥だと思って続けている。どんなことにも共通していると思うのだが、大体の場合、人間が嫌がるつらいこと=結果的に良い方に転ぶことが多い。

今日は高校時代の友人数名と高校時代を記録したDVD鑑賞会をした。部活の試合風景、文化祭で踊ったダンス、それらの練習風景を見ていると18年前も昔のことなのに色んなことを鮮明に思い出す。そして今となっては試合の映像を見ながら18年前の自分とは違う見方をしていて、ダンスの映像を見ても同様にあの頃とは違う見方をしている。面白がりながらも、懐かしがりながらもあの18年前に共有していた時間は宝物だなと思った。またこうやってゲラゲラ笑いながら一緒に時を過ごすことが奇跡だと思った。あの頃のように毎日一緒にいないのに、3日前に会ったかのように打ち解けて話せる。永遠というのはここにあるのだなと思う。18年前のあの頃からの現在。私たちは18年前のお馬鹿で生真面目で小心者だった女の子達を永遠に忘れることはない。どんなに時が過ぎても私のベースはあそこにある。お金も無かったし毎日部活だったけど、すべてがそこにあった。



答えは全て正しい




さて、質問です。あなたは今、自分の人生に満足していますか?満足していないとすれば、それはなぜですか?何がどうなれば満足しますか?その満足のためにあなたは自分が出来る範囲でどのような取り組みをしていますか?その取り組みに結果が出たら本当に満足しますか?  、、、、驚いただろうか。実はこの質問をもう何ヶ月も自分自身に問うている。 私の答えは「満足していない」だ。実は生活の内のほとんどの瞬間、私は100%満足していない。では満足するときはいつか?答えはシンプルだ「誰かが喜んでくれた時」その刹那しかない。約35年も生きてきて、そんなに満足していないのか!と思うだろうか?ではあなたはどうですか?常に100%満足して生きていますか?今日やり残したことはまったくないですか?本当はあれをしたかったのに、、、とか。きっとあなたも私と似たようなものではないだろうか。こんなふうに言われてちょっと嫌な気分がしたかもしれない。でも、この問いを自分に突きつけないことには、「自分の満足」すら把握しないまま毎日が一瞬で過ぎてしまう。自分の満足は、実はとても大事なことで「幸福」という言葉に置き換えても良い。自分の幸福もわからないのに幸福にはなれないし、周りの人に幸福を与えることだって出来ない。この人を幸せにしてあげたい!とかこの子を幸せにしてあげたい!とかの前にまず自分が今どうなのかを冷静に見てみる必要がある。
自分の幸福とは何か??、、、カッコよくて優しい彼氏がいる、貯金が3000万ある、外車に乗っている、大きな家に住んでいる、週に1回は外食をする、、、人それぞれの考えがあるので答えは何でもいい。大事なことは自分の答えを出すことで、正解などはない。そしてその考え抜いた答えこそ何よりも大切にしたいことだ。すべての人の答えが正解として認められる世の中になればいい。

高校生のあの時、まだスマホも無かった。
小さな世界だったがそれはそれでとても幸福だった。
あれから十数年間経ってものや便利が溢れかえった今、自分の立ち位置を改めて把握することはとても必要なことではないか。





LIFE is wonderful.
イオンモールのフードコートにいる。今日は念願の映画【キングダム】を劇場で観るためにここまでやってきた。過去数年に比べて、2019年になってから頻繁に映画を観るようになった。正確に言えば過去5年間に比べて、だ。前の住居の時にはインターネット回線を引いていて、月額1000円のHuluを契約していたので頻繁にPCで映画を見ていた。もともと映画はとても好きで多い時は毎月4作品くらいは観ていた。基本的にホラーやスプラッター以外は近未来も恋愛系も何でも観るタイプだが、好みのストーリーは【這い上がる】系だと思う。今回の【キングダム】の原作の漫画は読んでいないが、あらすじを予習しているとやはり【這い上がる】系だった。CMで強調されている言葉が【奪還せよ】なのだからそりゃそうだろう。誰かから何かを取り返して、何かを何とかしたいのだろう。

まだ観ぬ【キングダム】の予告編を観ていると、主人公がなんだかとても怒っている。怒って怒って、相手の悪者から何かを【奪還する】らしい。その奪還したい何かを取り返して、主人公が何をしたいのかはわからないが、とにかく相手は自分とは桁違いの身分の人間で持っているもので比べるとまず勝ち目などない。それでも挑む。それくらい怒っている。勝ち目の無い戦いを【挑む】熱量と同じだけの熱量であるその【怒り】を私は尊いものだと思う。先日の日曜日は市議会議員の選挙日だったのだが、前日の土曜日は立候補者が駅前の演説で白熱していた。お店の中にいては何を言っているのかまで聞き取ることは出来なかったが、その怒声に近い演説には何かしらの強い想いが乗せられていたのだろう。今の市政の何かに強い想いがあるから怒声をあげて訴えていたのだと思いたい。現状の何かを変えるには、それくらいの、叫びたいくらいの、勝ち目が無くても行ったるでくらいの強い想いが必要なのだと思う。そして強い想いというのものは、大抵、何もかも満たされている環境では生まれない。コンプレックスだとか劣等感だとか欠乏感だとか、ネガティブな想いからしか誰にも止められないような強力なエネルギーというものは生まれないのでは無いか、と思ったりしている。

現状に対する不満。生きている環境、自分の容姿、人間関係、経済状況、、、私たちを取り巻く状況は様々だがそこで生きることで幸福感を既に感じているとすれば、多少の不満はあれども状況を打開するための行動をとろうとはしないだろう。もしかしたら、今よりもっと悪くなるかもしれない。周りに冷めた目で見られるかもしれない。友人が離れていくかもしれない。親に叱られるかもしれない。そのリスクをとってまで変化を望むことはとても怖い。私自身ももちろんそのリスクを考える。考えて考えて考える。だが、いつももう一人のゴショオヒトミがひょっこり顔を出す。【その選択で後悔しないか?】【その選択は自分をドキドキさせてくれる選択か?】【現状のまま、あと何年生きるつもりだ?】と。【現状の生き方を続けて見える未来は、自分に夢や希望や生きる楽しみを見せてくれるのか?】積もっていた小さな不満にふつふつと種火を灯してゆく。




↑念願のオンデーズのサングラス






次の一歩を大きく踏みだそう



キングダムの主人公は奴隷出身だ。そこから大将軍になるために自分を鍛え、自分より強い相手に戦いを挑む。奴隷で生まれたら死ぬまで奴隷。誤解を恐れながら言えば、それは奴隷であることを自分に許しているからその人生を歩むのではないか。私はダサいからずっとダサいままだ、とかオレは勉強が苦手だから賢いやつと生きる次元が違う、とか。自分が初めに立った場所から抜け出すためには強くならなければいけないが、【大将軍になる】と決めた時からキングダムの主人公の人生は【普通の奴隷】から外れていく。映画はもちろんフィクションなのでリアルの生活と完全にリンクさせようなどと思っていないが、何かを目指し夢見ることから次の一歩が変わってくるのは同じでは無いかと思う。右に出すのか、左に出すのか。上を見るのか、下を見るのか。物心ついた時に置かれた環境は、基盤にはなるがそれから先の人生の全てを決めてしまうことはない。ある程度見回して状況が掴め、もしここじゃない、と思うなら自分の求めるものを得るためにどんな想いも燃えるエネルギーに変えて、どうせなら次の一歩を大きく大きく踏み出したいと思う。


LIFE is wonderful.

生駒駅のサンマルクカフェでモーニングをしている。今日は知人から税理士さんを紹介してもらう予定なので出かける前にブログを書いている。個人事業主になったので、税金のことなど色々と自分でしなければいけない。が、それにしても知識がなさすぎるので一度税理士さんとお話しして確定申告やらなんやらのお話も教えてもらう予定だ。先日あるディーラーさんに【税金のこととか自分でするのは面倒ではないですか?】と言われた。実際まだ確定申告も諸々の手続きも自分で行なっていないのでわからないが、多分面倒くさいのだろう。面倒くさくても自分のことなので自分でやろうとは思う。自分の頭で考え、行動した方が知らないことを知ることが出来るし、何かあった時にも自分で立てるようになる。自分を頼れるようになる。私は人の手を借りないと立てない状況というのが好きではない。人に頼りたくないわけではなくて、例え何かの物事を人に頼るとしても、一度は自分で経験するなりして体で感じた上で人に託したい。面倒くさい手順を踏んでいるとは思うが、その方が託す相手に感謝の気持ちを持てると思うからだ。そしてもし託した相手に助けが必要な時、自分が助けることが出来るかもしれない。願わくば、助けてもらうだけよりも自分も相手も助けることができる人でありたい。







先日後輩に【やりたいことが明確だからいいですね】と言われた。今きっと皆さんの目に映る私は【美容師もカメラもやりたい人】なのではないかと思う。実際のところそれは正しいけど、正しくない。美容師もカメラもやりたいけど他のことだってやりたい。IT関係の勉強もしたいし、将来的には株もしたい。出来るとか出来ないとかの可能性で決めているのではなくて、興味があるからやりたい。その中で今すぐに出来そうなところからやっている。美容師はずっとやっているし、カメラも持っているからそれなら撮ればいい。カメラをやりだすとレタッチという修正スキルが必要になる。そうするとPCの作業が必要になる。もっとPCのスキルがあれば発信するスキルも上がる。それを活かしてWEBに強くなれたら、、、、という一種の夢を連鎖している状態だ。だから【何を目指しているのか?】と言われると少し困ってしまう。数年前まで【売れっ子美容師】を目指していた。でも今はそういう固有名詞ではなく、【楽しく生きること】を目指している。人間は自分で決めたことを実行している時に充実感を得る。人から指示されたことをこなすだけでは充実感を得ることはできない。自分の人生を楽しもうとすることに必死なのである。
その後輩にも伝えたのだが、そもそもやりたいことなんてやりだしてみないとわからない。中華料理を知らなくて【うお〜!!!!今日は猛烈に中華食べてえ〜!!!!!】とはならない。最初っから何が自分にハマるのかなんて誰にもわからないし、やってみたら違ったりする。それでいいのだと思う。損するかもとか無駄になるかもとか、大概の不安は過ぎてみればどうでもいいことになる。無駄と思える中から何を得るかすら自分で考えて作ってしまえばいいのだ。例えばどこかのセミナーに行って、講師の喋りが下手であればどの部分が下手なのか観察すればいい。自分がその下手ポイントを理解すれば、それだけの学びに繋がる。自分が意図して得た全ての経験は自分の宝物だ。一見損に見えるような経験すら、その経験上に自分が進化すれば、かけがえの無いものになる。その20代の後輩にはこう言った。【私は今年で35歳になるけど、正直もう少し早い段階で外の世界に目を向けて色んなことに気づくべきだった。あなたはまだ25歳でなんでも出来るのだから、とにかくやりたいことは全部やって、小さな失敗をめちゃくちゃしてほしいと思う。】と。








楽しく生きたもん勝ち



働き方改革、AI化、東京オリンピック、プログラミング、、、目の前に並ぶこれからの未来の中でどのように生きていくか。少し前まで【売れっ子美容師】を目指していたゴショオヒトミはふと世の中の流れに興味が湧いた。あれ?なんか私が社会に出た頃と随分世の中変わってんじゃね?あれ?美容師業界もなんか今変化凄くね?え?仕事なくなる?外国人わんさか来てる?おっと、、、これはうかうかしていられませんなあ、、、5年前の今頃、売れっ子美容師を目指していたけど、今のような開かれた世の中を想像することは出来なかった。ということは、今からの5年後はもっともっとビックリする未来になってるかも。週休4日とかなってるかもしれん。。。その時、美容師はどんな形で存在するんだろう。お客さんの何割が他国籍なんだろう。自分は楽しく生きているのか?もし人間が働かなくて良くなった時、人生で持たされた時間を何をして過ごすんだろう。将来何をするつもりで生きていますか?時間が有り余った時、それでも人生を楽しんで生きていたいなあと思う。生かされているのではなく、楽しく生き切りたいなあと思う。楽しく生きるためなら、確定申告もちゃんとやっとかないとな、、、あはは、、、





LIFE is wonderful.


今年の花粉は本当につらい。目にも鼻にも喉にも来る。目の奥が痛くて開けてられないので、最近はもっぱら伊達眼鏡の生活である。今使っている伊達眼鏡はブルーライトカット用に我らがAmazonで購入したものなのでオシャレさにかける。わかってはいるのだが、次に伊達眼鏡を買うときはここで買ってみたいな、と思うお店があるのでなかなか買わないままでいる。そのお店の名は【オンデーズ】。少し前に【破天荒フェニックス】という小説の題材になった眼鏡屋チェーン店で、この小説の中のオンデーズは実際に実在し、潰れかけのオンデーズを買収し立て直した社長が書いた小説が【破天荒フェニックス】だ。今は世界規模で展開するまで大きくなったが、元々は投資家の10人中10人が「オンデーズは潰れる」と口を揃えて言うほどの負債を抱えた会社だったらしい。借金残高14億円。マイナス14億円+銀行からの増資もなし。そのスタート時からの物語を知っているので、出来る限りそんな面白いストーリーを生きてきた会社の製品を買いたいと思う。そうか、オンデーズは今この眼鏡で生きてるんだな、と思ってそれを身につけたいと思う。きっと私はその眼鏡と共にそこで頑張る人の想いを身に付けたいのだと思う。









私は主人公が弱い底辺のところから這い上がる物語が好きだ。この【破天荒フェニックス】もまだ最後まで読み終えていないが、底辺にいて這いずり回って頭ひねって必死に切り抜けて、自分の想い描く未来へとコマを進めていく中で、裏切られたり助けられたりして徐々に自分の思っていた未来に近づいていく熱い系ストーリーは大好きだ。少し前に映画で上映されていた【グレイテストショーマン】も大大大好きだし、今月に観に行きたい映画の【キングダム】も奴隷の主人公が這い上がっていく物語だ。内容はまだ観ていないので割愛するが、困難が目の前にきた時、自分が不利であっても構わず突き進む姿に心を打たれる。その真っ直ぐさに打ちのめされる。なんでこんなに自分に正直にいられるのか。諦めないのか。折れないのか。その意思の強さはどこからくるのか。好奇心旺盛すぎる五所尾さんは真相が知りたくて仕方ない衝動に駆られる。「イッタイソノツヨサハドコカラクルノ」そしてどうしようもなくその姿に魅せられながら思う「ワタシモアンナフウニイキタイ」そう、私はそんな小説や映画の主人公のような生き方を自分もしたいと思っている自分に気づく。おいおい、三十路真っ只中だぜ?夢見るのもいい加減にしなよ。え?人生で何かを始めるのに年齢とか関係なくね?だって「人間は、結局、自分がなりたいと思う人間になる」って文学者のゲーテも言ってるってよ。年齢は関係なくね?自分がなりたいと思う人間になれるように生きればなれるんだよ。きっと。きっと。








自分がなりたいと思う人間になる



2019年4月、私は個人事業主になった。今までの会社で働かせてもらっているが所属はしていない。フリーランスの美容師、というジャンルになる。聞きなれない、意味があまりわからない方もいると思うので少し説明するが、私に固定のお給料は支払われないし会社の社会保険にも加入していない。そして平日は夕方17時、土日祝日は18時には業務終了となる(任意)。会社に保証されたお給料をこの度卒業させて頂いた。自分のやった分の仕事で生きていくことを決意した。ちなみに美容師として皆様から頂戴した売上がそのまま私のお給料になるのではなく、会社に諸々の仲介料を支払って、残ったものから個人で税金や保険を支払い、その残ったものが私の生活費になる。つまり頑張ったら増えるし、頑張らなかったら苦しい。とてもシンプルな契約だ。そして私は会社に保証されたお給料の代わりに、就業時間を短くして新たな時間を作ることが出来た。例えば他に今とは別の仕事を得た場合はそれも自分のお給料になる。長い長い間、時間をかけて考えて考えて出したひとつの解答。私の人生にとって「時間はお給料よりも貴重」ということ。そしてまだこれはやりたいことのための時間を作っただけであって、ダラダラしたいために時間を作ったのではない。したいことをしたいようにしたいときにするために、一見リスクに見えるフリーランスを選び、会社員を卒業した。この丸四年は私にとってものすっっっごく学びの多い時間だったし、とても貴重でかけがえのないものだったと思う。そしてその四年の学びを携えて、私は次のステージに立つ。




三十路真っ只中でも、肌が衰えてきていても、体力が落ちていても、生きたいように生きたい。憧れの主人公のように生きたい。自分もあんなふうに一生懸命にまっすぐに、、、その姿を見て、いつかの自分もそうだったように、誰かを魅了しまうほどの迫力が出てたら、、、それって、素敵やん、、、、、、



LIFE is wonderful.
3月が終わろうとしている。いつもこの時期になると数年前の同じ時期のことを思い出す。次の4月で私は今の会社に入ってなんと5回目の春なのだ。5回目の春。5年目。5年前の今頃。あの頃から数えて5回目の4月を通り過ぎたすぐ三ヶ後の7月、ついに私は35歳になる。正直なところ、30歳を過ぎたあたりから年齢のことをほとんど考えることはなく、今年は何歳になるんだっけか?と周りに聞いてしまうほどだ。だが、5年前の今頃の私は違っていた。30歳の節目の年に8年勤めていた前のサロンを辞め、私の人生史上初めての大型サロンに移ろうとしていたのだ。美容師を18歳から始めて12年目にして大きな環境の変化を望み、また1年生になったつもりでスタートしよう不安と期待に胸をソワソワさせていた。そう、その頃のことをまた思い出している。束の間の春休みで東京に行った。明治神宮で祈った。お客さんが住んでいる島根県に行った。出雲大社で祈った。美容師をお休みしている友人と三重に行った。伊勢神宮で祈った。たった2週間ほどのお休みのスケジュールの中身がたまたまそうなったのだが、「次のステージで活躍できるように頑張るから、どうか見守ってほしい」とあちこちの神様に祈り倒した春休みだった。







5年の間にどれだけ成長しただろう。大人になって感じるのが難しいことのひとつに「成長度合いを測りにくい」ということがあるように思う。仕事の成績や技術課題をクリアする、というのは社会に出た大人の基準では成長とカウントしない。と思っている。大人の成長とは「どれだけ広い視野で物事をみれるか」とか「自分の執着をどこまで手放せるか」とか「他人と自分の違いをきちんと認めることができるか」とか人間としての成熟度のことを言うと思う。仕事の成績が良くても課題をクリアするのが早くても、人間として魅力的で無いなら成長していると言えない。と思っている。点数を稼ぐコツを知っているだけだ。長時間一緒にいることは出来ないし、意見も聞きたくない。願わくば、私は「あいつの話を聞いてみたい」と思われる人間になりたい。本当に困った時に「相談したい」とか言われたい。「あの人は面白い視点で物事をみているから、考えを聞いてみたい」というところを実はひっそりゴールにしていたりする。ただただ世間一般の言葉を並べる良識者よりも、世間一般というものをある程度理解している曲者でありたいと思う。







選択に正解はない


実は数年前からある一つのことについて考え続けてきた。今年はその問いに対して、自分なりの明確な答えを出すことになる。かなりの時間と労力をそこに費やしてきたつもりだ。実際勉強代として払ったものの金額も大きければ、経験値も増えたと思う。決して、決して褒められたような内容ではない。けれども、自分を使った体験の中で得た一つの答えは自信を持って自分以外の他人に話すことが出来る。考えてみればどんなことでもそうだ。実際に見たり動いたり感じたり、時に自分を痛めたりしてみないことには人間は学ばないし語れない。たまにやったこともないのに経験したように話す人間がいるが、そんな人を誰が信用するだろうか。自分以外のことを批評して自分は安全な傷つかない場所にいる人間とは、私は関わることが出来ない。ならば、無知は無知なりに一生懸命に生きて、すっ転んでいる方がいい。そういう人間をきっと周りは助けずにいられないのではないか。例え助けてくれる人がどんなに少数であったとしても、きっといるのだと思う。そしてそっち側の人間でいたいと思う。

話がそれたので戻す。自分を使った体験の中で得た一つの答え。それは人生の選択に正解はないということだ。選び取った答えが全てなのだ。正解(成功)とか不正解(失敗)とかいう次元の話ではない。周りはそれをみて批評をしたがるのかもしれない。そう、だいたい他人は批評したい生き物だ。自分だってうっかりすればそっちに回ってしまっていることがあるだろう。他人、というよりむしろ人間という大きなくくりにしてしまった方がいい気がするし、「他人と自分を比べるものではない」とは思いつつも、何かの拍子に「あの子は、、、」とか「私だって、、」とか思ってしまうのが人間だ。だが、何かを選択した本人にとって自分以外の人間の思惑など本当はどうでもいいことなのだと思う。答えを出すまでに至った経緯を思えば、誰も当人の心などわかるはずがない。1番大切なことは「自分で手に取り、感じ、考え、答えを出す」一連の流れだと思う。これが全てなのだと思う。そこに至るにはどんな結果になったとしても、受け入れる覚悟が必要だから。その覚悟をもって出した答えに他人の批評は意味をなさない。それが例え家族や友人などの近い存在であろうとも。




人生は【自分の物語】だと思うし、
どんな時でもあなたも私も主人公なのだ。





LIFE is wonderful.

3月半ば。入試や卒業式を終え、次のステージに進む前の一区切りとして髪を切ったり、カラーリングをしたりするのにご来店される方が多く、美容室は1年の中で2番目に忙しいシーズンだ。今年は特に大学入学前の初カラーをしに来られる若いゲストが多く見られる。偉いなあと思う。ちゃんと美容室に染めにくるのだなあ。緊張した面持ちでご来店され、帰りには明るくなった髪にウキウキとソワソワを全身で発しながら出て行かれる姿を見ると、今まで何百人何千人?のお客さんの髪を染めている私たちでも、なんだか初心に帰ったような、照れ臭い気持ちになる。美容室の仕事ならではの達成感。幸福感。嬉しそうにしてくれてありがとう、もっと上手くなるね。と、こちらも気持ちを新たにする。私たちの仕事はこういうものだ。自分の手で「創り出したもの」を受けとった相手の表情を目の前で見て、どうだったかの結果をその場で受け取る。FaceToFaceのやりとり。これからの時代においては、価値と難易度が高くなりそうな仕事ではないかと思う。






私自身は便利なもの、効率的なものが大好きだ。Appleも好きだし、Amazonプライム会員だし、Paypayも使った。SNSは網羅しているし、スマホを切らない日は無い。テレビは見ないけどツイッターやLINEニュースで錦戸くんがNEWSを脱退することも知った。 私が初めてネットに触れたのは中学生のときで、友人にやり方を聞きながら独学でホームページも作っていた。こんなことしていた中学生女子は周りにいなかったが、現実の世界とは別に私はネットの世界で友人を作ることにも成功した。「出会い系サイト」という言葉はその少し後に世の中に出回った。
今やほとんどの人がネットで繋がらない日なんて無い。これから先もずっと無いだろうと思う。昔はパソコンでさえダイヤルを回さなければ繋がらなかったが、今やwifiが勝手に探して繋げてくれる。きっともう全ての人が(通信障害や災害を除いて)繋がらなくなる日なんてこないのだろう。画面を覗けば、だれかの日常を垣間見ることが出来る。そしていいねを送って同じ時を過ごす。






非効率的に生きよう





効率的で洗練されていて無駄がない仕組み・環境と、いつどんな時でも誰かと繋がる簡単なコミュニケーション。なんて素晴らしい世の中になったのだろう。テクノロジーは今も日進月歩で、ついに映像を見たら匂いまでするようになる。どこでもドアが現実になる日はそんなに遠くないかもしれない。すげえ。やべえ。こうなってくると本当に何もしなくて良くなる。先日ご来店のお客様は理学療法の学校に行っていたらしいが、そのうち理学療法士は無くなる職業だそうだ。ほとんどがお医者さんに集約されると。本当に人間が行うことが減る。仕事が減るというのはどういうことか?人間同士の関わりも減るということだ。レジのチェッカーさんは既にいなくなってきているし、コンビニも無人化していくだろう。私は思う。これから価値が高くなるのはモノやお金ではないな、、、人間と人間の繋がりだな、、、だって繋がるところがネットしかないんだもん!でもネットで人肌には触れられない。顔が見えない相手と罵り合ったところでそこに愛は生まれない。陰湿な感情を抱えて画面覗き込んで性格悪くなるだけだ。相手の顔みて心境を想像して、ツライ思い抱えながらもぶつかり合うことでしか得られない「何か」がとても貴重になるということだ。めんどくさい、しんどい、たまに泣く、、、そんな生き方を非効率的生き方と呼ぼう。そんな生き方が希少価値となるだろう。いや、もうなってるか。そして私はそんな生き方を選んでいきたいと思っている。回り道でも、すぐに形にならなくても、失敗こいても、うへ〜もうダメかもしんね〜死ぬかも〜!!とかなっても、その中でしか触れ合えない何かが尊いと思うのだ(たぶん)、、、、



だって美容師って、誰かの髪に触れて、言葉を交わして、魔法をかけることが出来る仕事だ。
無駄の無い日常の中ではきっと魔法は生まれない。(たぶん)





書いては保存し、最後まで書き切っていない文章がいくつもある。書こう書こうと思うほど、何から書いていいのかわからなくなり、途中で自分自身が迷子になってしまう。だが、日々の中で感じる沢山の感情や溢れてくる思いはとめどなく、自分自身の中だけに留めておくには私の中にある感情タンクは容量が少なすぎてやはり何らかの形で外に溢れでてしまう。インスタやツイッターやブログや何やらかんやらを通して。
自分の考えていることや想いを外に出し表現するということは私にとってとても当たり前の日課のようなものだった。それは幼い頃はお絵かき。そこにストーリーが組み込まれ、小学生の頃になると将来の夢は漫画家だった。自分で思った通りにシナリオをイメージし、キャラクターを作る。一人っ子の私の遊び相手は漫画と新聞に挟まっている広告(裏に印刷が無いもの)とボールペンと筆ペンだった。小学校の高学年になると仲の良いお友達とお小遣いを出し合い、漫画家が使うトーンと専用の用紙を買った。トーンの貼り方もイマイチよくわからなかったし、専用の紙に書いたところで印刷の仕方も分からなかったので仲良し漫画家チームは自然消滅した。ちょうどその頃に安室奈美恵が一斉を風靡し、私も例に漏れず、安室ちゃんにハマってしまい、安室ちゃんに何とかして近づきたいという思い半分、漫画を書いていた時に髪型を書くことが好きだったことが半分の理由で将来の夢を美容師に方向転換した。
そしてなんだかんだで美容師歴はいよいよ17年目になる。




美容師と漫画家にも共通点がある。自分の描くものを具現化することだ。頭の中で描いたイメージは漫画ではイラストになり、美容師では立体のヘアスタイルになる。イメージし、デザインし、クリエイトする。この過程を心底楽しめるタイプの人間はちょっと、いやかなり主張が強い。そして私はそういう人間がとても好きだ。イメージし、デザインし、クリエイトする。流れはとても単純だがやればいいという話ではない。その一連の流れは「生み出す」作業に「命をかける」ことと一緒だ。その作業に全身全霊で臨めるタイプの人間はごく僅かで、しかもとても魅力的な人が多い。一流のデザイナーや職人がカッコイイのはその仕事に命をかけているからだ。彼らにとって生み出したものは自分の一部であり、命が吹き込まれたものだ。だから生み出す一連の流れにものすごくこだわりを持つ人が多いのだと思う。だが、その「生み出されたもの」に対してこだわりを持っているかというとそれは違うかもしれない。あくまでそれは結果であって、次のものが生まれる時にはそれはもうすでに過去のものになる。過去は参考資料にはなるが未来は作らない。常に「今の選択」が「未来」なのだ。










命を使いきりたい


沢山の想いが書きかけの文章の中で生きている。言葉は上手くまとまらず、結論を出すことも出来ないがそこに宿る熱量は心の中でずっと呼吸している。根底に共通しているものだけでもここに書き散らしたい。この世に生まれ、いただいた命を使いきりたい、ということ。命を使い切るというのはどういうことか。そこに社会的な評価制度は設けたくないが、 あくまで心の中の基準として持っていたいのは「自分の心に素直であること、それと行動を一致させる」こと。好きなものは好きと言い、嫌いなものは嫌いと言い、他人の基準で自分の人生を計ろうとしないこと。自分の心に素直になって己の幸せの定義を見つけることできっと他人の幸せも尊重出来る。自分を大切に出来る人は同じように他人も大切に出来る。自己犠牲の精神などまったくもって必要ない。誰かが自分のために我慢して自分を幸せにしてくれようとしている、などと知って誰が感謝など出来るだろうか。いえいえ、あなたの人生はあなたのものなのだからあなたのために使ってください。もしそこで一緒に楽しめることがあるなら、お互い協力しましょう。そうして限りある人生を活かし合いながら生きましょう。自分が我慢すれば、なんて考えはいただいた命に対して失礼だ。だけど人間だからそんなに潔くスパー!スパー!と片付けられることもなかなか難しいのはわかっている。私がそうだから。だからこそ葛藤する。でもここに書き出すことによって、私は今の自分の立ち位置を確認出来る。スパー!と生きたいんだな。。そうかそうか。。よし、そんな人間になれるように命かけて生きてみっか。







それでは、また。


今日は大阪難波の大好きな場所、スタンダードブックストアでブログを書いている。ここには10年位通っていると思うのだけど、いつ来ても静かで適度に話し声や洗い物をする音が聴こえて、オープンスペースだけど各々プライバシーを守っている感じがとても気に入っている。私の大好きな文房具やいつ売れるのだ?一体誰が手に取るのだ?というジャンルのマニアックな本が置いてあったり、ちょっとゴチャゴチャしている感じも良い。地元から外に出てくると思うのだけど、自分のことを放っておいてくれる空間というのは妙に落ち着く。私が何をしようがどんな格好であろうが誰も気にしない。それぞれがそれぞれのペースで人生を進めていて、たまたまここに居合わせただけ。だけどこんなに沢山のお店がある中で、わざわざ駅から歩いて、この地下の目立たないカフェを選んでくるところを考えると、ばらばらの人生を歩んでいるけど、どこか見えないところで何か共通のものを求めていたりするのかな、と深読み五所尾は考えてしまう。右斜め前の彼女は茶色い髪を綺麗に巻いて、発色の良いリップをつけてファッション誌を読んでいる。私と同じ人類科の種族とは到底思えないけど、それでも何か共通のものがあるのかな。とか。







ここに来たのには理由がある。フラッと立ち寄ったわけでは無い。フラッと立ち寄るために大阪ー奈良の往復交通費をかけてアジア人がごった返している都会にわざわざこない。10年位通っている、と書いたが10年位前はここにファッションやトレンドのインプットをしに来ていた。20代半ばの頃の私はスタイリストになったばかりで、自分を認めてもらうために売上を上げなければいけなかった。そのためにはファッションの勉強をしなければならなかったし、自分も毎月新しい服で着飾らなければならなかった。10年前の難波は梅田よりまだトレンドポイントとして優勢だったし、当時の私にとって難波で色々なアパレルショップを見て、疲れた体をスタンダードブックストアのカフェスペースで癒しながらファッション誌を見る、というのが【イケてる美容師の休日】の過ごし方のひとつだった。つまり10年経っても私がここにくる理由は【イケてる美容師の休日】をもう一度してみることだ。心斎橋筋をブラブラ歩き、アパレルショップに入って物色もした。カメラと友達になるために肩からぶら下げたデジタル一眼レフの重さに何度も持ってきたことを後悔した。待ちブラには重い。(せっかく持ってきたから道頓堀で撮ったけど) 





【イケてる美容師の休日】をなぞった理由は【今現在の自分】から離れるためだ。難波に出てくることも今はほとんど無くなった。新しい服を買うのもネットで買えるし、ファッションだってインスタで勉強できる。ヘアスタイルだってなんだってネットで調べれば教えてくれるのだから、現地に行く必要性はない。遠くにあるものがすぐに手に入る世界で、むしろ自分の世界はドンドン狭くなっていくのを感じているのは私だけだろうか。電車で時間をかけて難波に来たし、寒いし荷物は重いし、外国人ばっかりだし、【必要性】で考えればきっと要らないことばかりなのかもしれない。でもふとした瞬間に感じる心の動きだったり、今見上げた光の感じが美しかったり、その刹那に感じる手に取れないし形に出来ないようなことたちを私はきっと求めていたのだ。体も意識しないと動かせないように、心だって意識しないと感じないし動かなくなってしまうんじゃないの?自分の内側からエネルギーを発して、命を生き尽くすにはきっとそういった心の運動が必要なんだ。多分。
しかも心の運動にはたっぷりの時間がいる。筋肉みたいに【コレ、15回×3セット!!】で終わったらプロテイン飲んで、続けたら筋肉付くって問題ではない。自分の心が動いているのを感じて、それに浸って味わう時間。その味を誰かと共有したり、教えたい!って外に出ていくまでには熟成させる時間がかかる。そんな時間が今を生きる私達にはものすごく必要なように思うんですよ。(なぜ敬語)











見つめていたい


10年前にこの場所に通っていた時、私は【一人前の美容師になりたい】と思って勉強を続けていた。毎週のように講習に通い、ファッション誌を眺め、帰り道でモデルハントをする。当時はそれを苦しいと感じた時もあったし、でも、その中でしか得られなかった学びも沢山あった。結果、今ではよかった、と思っている。そう、苦しいことも過ぎてみれば割と楽観的に見れたりするものだと思う。いやあ〜しんどかったよ!休みなんて無かったからねえ!よく倒れなかったもんだ!って。その根底にあるのは【一生懸命やった】っていう気持ち。どんなに休みがなかろうが、お給料が安かろうが、自分の【こうありたい】に忠実に生きていたのが良かったのだと思う。だってモデルハントも講習も行けって言われたんじゃ無かったし、行ってない人もいたんだよね。それでもそれをやろうと思ったのは自分で、それでしんどい思いしたのも自分で、結果良かった、って評価したのも自分。この文章を読む人は【全部自己責任ってことか、、ツラ、、】と思ったりするんだろうか。そう思うのも自分だし、自由なんだと思う。つまり「どんな選択をしても自分」ってことで受け入れる。間違いなくこれは間違いないな、と思うのは待っていても誰も自分を幸せになどしてくれない、ということ。これはまぁまず、間違いない。親だって無理、子供だって無理、まして他人である友達や職場の人間が自分のことを幸せにしてくれる、なんていう幻想を無意識に願っている可能性があるなと思う方は今すぐに目を覚ましなはれ!はい、おはよう!!



自分はどんな選択をしたいのか、自分の幸せと感じ るポイントはどこなのか、つらいことに出会った時にどんな対処をするのか、、、その自分の「ありかた」を見つめて生きていきたいし、もし誰かがこういった考えに共感してくれたら五所尾仁美はとても嬉しいなあと思う。どうぞ仲良くしてください。









一緒にいこうよ、楽しいから。

仁美
今週の月曜日は私にとって16回目の成人式のお手伝いだった。18歳で美容の世界に入り、19歳で初めて成人式で新成人のお客さんのメイクをした。自分自身の成人式の日も私は現場に立っていて、友人のメイクを担当して、成人式へと送り出した。あの時自分がメイクをして送り出した友人の笑顔を今でも覚えている。幼い頃から知っている友人の華やかな姿はとても素敵だった。そして美容師の仕事は本当に素晴らしいものだと19歳にして思っていた。自分の選んだ道は素晴らしい。




16回目でも現場で感じることは同じだ。回数を重ねるごとに【やべえ、寝坊できねえ!】という切迫感は薄れ【し、失敗したらどうしよう!】という恐怖もほぼ無いけれど、【ああ、美容師は人を幸せにすることが出来る仕事なんだなあ、自分はあの子の一生に一度の成人式に携わって喜んでもらったのだなあ】と実感する。毎日毎日沢山のお客さんに【ありがとう】を頂いているけれど、成人式に関してはお客さん自身の《人生で一度きりの大人の儀式》という思い入れが強く、高校生の頃から髪の毛を伸ばしていたり2年前から予約したりと親子さん共々準備をする。その過程も含めて【成人式】なのだ。その背景を知りながら、当日、笑顔でお迎えに来られたお母さんの姿やいつもより大人びた様子の娘さんに荷物をお渡しするときにも【ああ、良かったなあ】と本当にめでたく嬉しい気持ちになる。そして自分の手が指が技術が目の前の人々を喜ばせる一端を担っているのだ!と思うと、【あー、もうそんだけ喜んでもらえたらお金はいらないです!!もうこっちがありがとう!!】と言ってしまいたくなる。(悲しいかなお代は頂かないといけない) なので成人式営業というのは終わった後、新成人の方々と同じくらい私をとても清々しい表情にしてくれる。今日という日まで色んなことがあってそれが一区切りついたような、新たなスタートを切ったような。



1948年に交付、施行された祝日法で【おとなになったことを自覚し、みずから生きぬこうとする青年を祝い励ます】趣旨のもと成人の日を制定したらしい。成人式は自治体ごとのお祝いの式典。そっか、なるほどな。【みずから生きぬこうとする青年】とはとても私好みの良いフレーズですこと。私、五所尾仁美にとって人生は冒険でクリエイトするもの。常に新鮮で未知に溢れていて、ちょっとしたサバイバル感があるもの。生きぬくという言葉はとても良い響き。意志を感じられる。自分で選び、自分で前に進めていくもの。自分で選んだことだもの、困難だって引き受けよう。だって自分で選んだ積み重ね=自分の人生なのだから。どんなことも(良いこともそうじゃないことも引っくるめて)、自分で選んだものなのだから。そう考えると大人になるって本当にワクワクすることだなあ。





おとなになるってどういうこと




大人になる。あの人は大人じゃない。あの人は大人だ。色んなところで聞かれる言葉だけど【おとなになる】とはどういうことなのだろう。妥協をしだすと大人?感情的にならないのが大人?無邪気さが無くなるのが大人?どんなときも冷静にしていられるのが大人?あなたは大人ですか?大人になりたいですか?それはカッコいいのですか?またはカッコよくないのでしょうか?きっと答えなんか無いし大人の正解なんてものも無いのだと思う。10人人間がいたら10通りの生き方があって、その周りの大人はさらに10通りあるだろうし、どんな大人もその人が思う大人を生きているだろうし、それはそれで良いのだと思う。私が魅力的に思うおとなは「おとなっぽくないおとな」が多い。あまり堅い雰囲気は苦手だしクールに装うのも憧れはするけど、きっと向いていない。なんかおもしろいこと言ってやろうとか思ってしまう。だから結構な人生の先輩レベルの方でもピュアな感じが漂っている人とか、子供みたいに楽しそうにしている人を見ると【あーいいなあ!】と思う。そんなふうになりたい。見た目は大人、中身は子供、みたいな。そうしたらきっと余計なものを持たないでいられる気がする。見栄とかプライドとか(もともとあまり無いつもりだけど、完全に消滅させたい)。




かなり昔にブログで書いたことがあるのだけど、子供は最強なのだ。楽しいことしかしようとしないし、今日嫌なことがあっても明日にはほぼほぼ忘れている。今目の前に起こることにしか興味を示さない、過去に囚われない。今日タッチ出来なかったから、明日も出来ない、、、なんて落ち込まない。ひっくり返ろうが顔面ダイブしようがタッチして進もうとする。凄まじい勢いで成長する。そして機嫌が悪いのが長引かない。少しずつ成長して、過去の蓄積で記憶がたまってくると、過去を基準に判断してしまう。今日と明日は違うのに!これはもったいない!今日は今日、明日は明日で子供のように生きれば良いのだ。そういう心を持ちながら生きていけるおとなになれたらいいなあと祈りながら、五所尾は日々生き抜いています。皆さんもすでにおとなになっていると思いますが、どのようなおとなですか?それぞれに個性の違う、愉快なおとなでいっぱいになればいいなあと思います。


では、また。