選択に正解はない
3月が終わろうとしている。いつもこの時期になると数年前の同じ時期のことを思い出す。次の4月で私は今の会社に入ってなんと5回目の春なのだ。5回目の春。5年目。5年前の今頃。あの頃から数えて5回目の4月を通り過ぎたすぐ三ヶ後の7月、ついに私は35歳になる。正直なところ、30歳を過ぎたあたりから年齢のことをほとんど考えることはなく、今年は何歳になるんだっけか?と周りに聞いてしまうほどだ。だが、5年前の今頃の私は違っていた。30歳の節目の年に8年勤めていた前のサロンを辞め、私の人生史上初めての大型サロンに移ろうとしていたのだ。美容師を18歳から始めて12年目にして大きな環境の変化を望み、また1年生になったつもりでスタートしよう不安と期待に胸をソワソワさせていた。そう、その頃のことをまた思い出している。束の間の春休みで東京に行った。明治神宮で祈った。お客さんが住んでいる島根県に行った。出雲大社で祈った。美容師をお休みしている友人と三重に行った。伊勢神宮で祈った。たった2週間ほどのお休みのスケジュールの中身がたまたまそうなったのだが、「次のステージで活躍できるように頑張るから、どうか見守ってほしい」とあちこちの神様に祈り倒した春休みだった。
5年の間にどれだけ成長しただろう。大人になって感じるのが難しいことのひとつに「成長度合いを測りにくい」ということがあるように思う。仕事の成績や技術課題をクリアする、というのは社会に出た大人の基準では成長とカウントしない。と思っている。大人の成長とは「どれだけ広い視野で物事をみれるか」とか「自分の執着をどこまで手放せるか」とか「他人と自分の違いをきちんと認めることができるか」とか人間としての成熟度のことを言うと思う。仕事の成績が良くても課題をクリアするのが早くても、人間として魅力的で無いなら成長していると言えない。と思っている。点数を稼ぐコツを知っているだけだ。長時間一緒にいることは出来ないし、意見も聞きたくない。願わくば、私は「あいつの話を聞いてみたい」と思われる人間になりたい。本当に困った時に「相談したい」とか言われたい。「あの人は面白い視点で物事をみているから、考えを聞いてみたい」というところを実はひっそりゴールにしていたりする。ただただ世間一般の言葉を並べる良識者よりも、世間一般というものをある程度理解している曲者でありたいと思う。
選択に正解はない
実は数年前からある一つのことについて考え続けてきた。今年はその問いに対して、自分なりの明確な答えを出すことになる。かなりの時間と労力をそこに費やしてきたつもりだ。実際勉強代として払ったものの金額も大きければ、経験値も増えたと思う。決して、決して褒められたような内容ではない。けれども、自分を使った体験の中で得た一つの答えは自信を持って自分以外の他人に話すことが出来る。考えてみればどんなことでもそうだ。実際に見たり動いたり感じたり、時に自分を痛めたりしてみないことには人間は学ばないし語れない。たまにやったこともないのに経験したように話す人間がいるが、そんな人を誰が信用するだろうか。自分以外のことを批評して自分は安全な傷つかない場所にいる人間とは、私は関わることが出来ない。ならば、無知は無知なりに一生懸命に生きて、すっ転んでいる方がいい。そういう人間をきっと周りは助けずにいられないのではないか。例え助けてくれる人がどんなに少数であったとしても、きっといるのだと思う。そしてそっち側の人間でいたいと思う。
話がそれたので戻す。自分を使った体験の中で得た一つの答え。それは人生の選択に正解はないということだ。選び取った答えが全てなのだ。正解(成功)とか不正解(失敗)とかいう次元の話ではない。周りはそれをみて批評をしたがるのかもしれない。そう、だいたい他人は批評したい生き物だ。自分だってうっかりすればそっちに回ってしまっていることがあるだろう。他人、というよりむしろ人間という大きなくくりにしてしまった方がいい気がするし、「他人と自分を比べるものではない」とは思いつつも、何かの拍子に「あの子は、、、」とか「私だって、、」とか思ってしまうのが人間だ。だが、何かを選択した本人にとって自分以外の人間の思惑など本当はどうでもいいことなのだと思う。答えを出すまでに至った経緯を思えば、誰も当人の心などわかるはずがない。1番大切なことは「自分で手に取り、感じ、考え、答えを出す」一連の流れだと思う。これが全てなのだと思う。そこに至るにはどんな結果になったとしても、受け入れる覚悟が必要だから。その覚悟をもって出した答えに他人の批評は意味をなさない。それが例え家族や友人などの近い存在であろうとも。
人生は【自分の物語】だと思うし、
どんな時でもあなたも私も主人公なのだ。
LIFE is wonderful.
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